山羊の沈黙

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三島由紀夫『橋づくし』

 「橋づくし」は、昭和三十一年「文芸春秋」に掲載された、三島由紀夫の短編小説である。
 新橋料亭の娘満佐子(二十二歳)は、同い年の友人のかな子、四十二歳の芸者小弓、そして東北出身の女中のみなと一緒に、陰暦八月十五日夜、願掛けに出かける。深夜、一言も喋らず、誰からも話しかけられずに、尚且つあともどりすることなく七つの橋を順番に渡って祈ると、願い事が叶うという願掛けである。映画俳優のRに焦がれている満佐子は彼との結婚を、かな子は金持ちの男と結婚することを、小弓は金を、それぞれ望んでいた。
 四人は築地の橋を順に渡って行く。だが、第一の三吉橋を渡り、第二の桜橋にかかるあたりから、かな子は腹痛に襲われ始める。第三の築地橋を過ぎ、四番目の入船橋を渡る直前で、かな子は腹痛に耐え切れずに引き返す。小弓も、五番目の暁橋を渡る途中で、知り合いの女に声をかけられてしまい脱落するのであった。
二人が脱落し、ついに満佐子とみなだけが残された。満佐子は、何を考えているかわからないみなの存在を、薄気味悪いものに感じる。六番目の堺橋を渡り、最後の備前橋にたどりついた満佐子とみなだったが、満佐子は通りすがりの警官に、身投げ女と間違えられ不審尋問されてしまう。満佐子は自分の代わりにみなに答えさせようとするが、みなは満佐子を置いて橋を渡り終える。
 結局四人の中で、願掛けを終了させられたのはみなだけだった。彼女の願いは、最後まで明かされない。
 無言の行の中、橋を渡っていくうちに変化していく女達の心情描写や、みなを除く三人が次々脱落していく様が技巧的な構成で描かれている。この作品は、「金閣寺」や「鏡子の家」などの大作の合間に発表された比較的地味な作品ではあるが、短編の傑作として評価は高い。平野謙が「毎日新聞」(昭三十一・十一・二十一)の中で、山本健吉も「読売新聞」(昭三十一・十一・二十七)の中でそれぞれ高く評価している。兎見康三(読売新聞)や三浦朱門東京新聞)も、文芸時評にて評価した。
 三島由紀夫本人もこの作品のことは気に入っており、新潮文庫「花ざかりの森・憂国」の中で「『橋づくし』も(中略)風景や物事が小説家の感興を刺激し、いっぺんの物語を組み立てさせたという以上のものではないが、中でも『橋づくし』は、もっとも技巧的に上達し、何となく面白おかしい客観性を、冷淡で高雅な客観性を、文体の中に取り入れ得たものだと思っている。」と語っている。
 
 この作品は、冒頭に引用された『天の網島』の一節を見るまでもなく、「橋」が重要なキーワードとなった作品である。この「七つの橋を渡る」という行為のモチーフとしては、ケーニヒスベルクの数学パズル説や北陸地方の風習「橋めぐり」説など諸説あり、はっきりしていない。
 「橋を渡る」という行為には、一種隠微なものを感じる。それは、昔から死を象徴する行為として扱われたり、何かの高みへ達することの例えであったりするからであろう。「こちら側」と「向こう側」を繋ぎ、到達点への距離と途中過程を示す「橋」というモチーフは、『橋づくし』においてどんな意味合いを持つのか。
私は今回、「橋」をこの作品におけるエロティシズムの象徴として捉えた。三島由紀夫の作品において、エロティシズムは欠かすことの出来ないテーマであると考えたからである。
 百川敬仁は、『日本のエロティシズム』において、エロティシズムの核を成す要素に、世界の時間化と時間の視覚化による、予期の感覚の濃縮的実感をあげている。この論理に基づくと、料理や蓄財といった日常行為も、ある意味ではエロティックな行為となり得る。料理は出来上がっていく過程において予期を孕む故に、そして蓄財は貨幣量の増加という鮮烈な目盛りによって、未来へ向かう確実な進行の感覚、つまり目標へ接近する時間感覚を、行う人間対して与えるからである。勿論、これらは生理的過程に根ざしていないという点で、完全にエロティックな行為とは言えない。ここで言いたいのはあくまで、「世界の時間化と時間の視覚化」が、濃縮された時間感覚を与えるキーワードだということである。
 フランスの哲学者サルトルは『存在と無』第4部第二章にて、自分の禁煙経験について、喫煙とはたんなる味覚や嗅覚の問題ではなく、象徴的に世界を煙と化す点が問題なのだと書いている。喫煙は、現実世界を吸い込み自分のものとして消費する行為であると。これをまた百川敬仁は、「喫煙は同時に、タバコが灰と化しながら次第に短くなって燃え尽きる終末への予期の感覚に重ね合わせて、視覚的に世界を時間化する行為」であると論じている。
 つまり、「橋」は到達点への道のりを示すものであり、それは同時に、到達への予期を感じさせるものである。『橋づくし』の四人の女達は、橋を渡る中、橋の終わりへたどり着く予期に重ねて、自分たちの願いの成就への到達を予感している。それは、「願いが成就するまで」という時間感覚を、「橋を渡る」という肉体的行為によって視覚化する行為であると言えるだろう。
 漠然とした夢想の世界とそこに到達するまでの距離が、橋を渡る行為の中で時間感覚として現れる。その時間感覚は、現実の視覚が捉える橋渡りの光景によって視覚化され、それは彼女達に、濃密な予期の感覚を味わわせるのである。
 作中には、次のような「心の変化」が度々描かれる。
 
 「満佐子はRと添えなければ死んでしまえというほどの気持ちになっている。橋を二つ渡っただけで、願望の強さが数倍になったのである。」(本文より)

 この箇所は、「渡る」という行為によって時間感覚が歪められたことを示している。視覚情報――橋を二つ「渡り終える」(到達する)こと――によって、満佐子は、願望への錯覚的な到達を繰り返し体感したのだ。
一方小弓は、「渡らねばならぬ」という意識の高ぶりによりそのこと自体が願望であるかのように錯覚する。二つは違うようであるが、その意識の変化の原因が、同じところにあるのは明白である。
 かな子の場合はどうか。彼女は、二つ目の橋にかかる前から腹痛に襲われてしまう。勿論何か体調に良くないところがあったのかもしれない。だがこれは、無意識の緊張によるものではないかとも考えられる。願い事を叶えるには、七つもの橋を渡らねばならない。これは、逆を言えば「橋を渡らなければ願い事は叶わない」ということにもなる。この橋巡りには、「話しかけられてはならない」「喋ってはならない」などのタブーが存在する。提示されたタブーは、それを犯した時のことをも予感させる。その予感が、橋を渡る中で濃縮化されたとしたら。「渡れなかったら」という不安と予感が、実際に橋を渡る中で増幅され、極度の緊張に繋がり腹痛をもたらすということは、考えられないことではない。

 「橋」というモチーフが、満佐子達四人に一種幻惑的な時間を与える装置であることは先に述べた。しかし、この装置の影響を受けているのか受けていないのかわからない人物がいる。みなである。この作品は、満佐子、かな子、小弓の三人の心情については描いているが、みなの考えていることは一切明かされない。彼女について提示される情報は常に満佐子から見た印象でしかなく、実際のみなの心の動きについては、読者は想像を膨らませるしかないのである。このことに、一体どういう意味があるのだろうか。
 
 彼女については、「容姿が美しいとは言えない田舎娘」くらいの情報しかない。だが、この少ない情報から汲み取るべきものはいくつかある。
 みなは東北出身である。この時代の東北というのは、まだ都心に比べて近代化が進んでおらず、所謂丁稚奉公に出てくる若者も多い、都会人にとってはまったくの田舎であった。満佐子達のような世間知らずの若い女性からすれば、「未開の地」と言っていいほど遠い場所である。
 このような、「都市の外」の世界について、抽象的ではあるが、三島はこんなことを書いたことがある。

 それは私の心の都会を取り囲んでいる広大な荒野である。私の心の一部には違いないが、地図には記されぬ未開拓の荒れ果てた地方である。(中略)私はその荒野の所在を知りながら、ついぞ足を向けずにいるが、いつかそこを訪れたことがあり、又いつか再び、訪れなければならぬことを知っている。明らかに、あいつはその荒野から来たのである。「荒野より」(昭四十一)

 「荒野より」は一風変わった小説で、「三島」家に突如見知らぬ青年が不法侵入してくるところから始まる作品である。主人公の「三島」は彼をただの狂人だと思い、青年は彼に「本当のことを話してください」とと詰め寄るも、やがてやってきた警官によって彼は逮捕される。「三島」は彼を、「心の都会」の外側から来たと言っているのだ。心の都会の外から来たに違いない『荒野にて』のこの青年と、得たいの知れない田舎娘のみなには、どことなく共通点を感じる。二人とも、都会ではない場所から現れ、主人公達は彼らに能動的に想像を膨らませる。
 この「荒野」のような場所のことを、三島は若かりしころに同じような言葉で表現している。それは、十五歳の時に書いた詩「凶ごと」に見られる。

 「凶ごと」
  わたくしは夕な夕な
  窓に立ち椿事を待つた、
  凶変のだう悪な砂塵が
  夜の虹のやうに町並みの
  むかうからおしよせてくるのを。

 ここに描かれている「町並みのむかう」は、三島にとって、「心の都会を取り囲んでいる広大な荒野」とほぼ同じ場所であろう。『荒野にて』の青年と同じように、みなもまた、満佐子達にとっての「町並みのむかう」から来た女なのではないか。
 みなは、「心の都会を取り囲んでいる広大な荒野=町並みのむかう」から来た絶対者なのである。
  
 満佐子は、背後を歩くみなの存在を、見下してみたり、うとましく感じたり、果てにはほとんど恐れるくらいになっている。こうした変化は、満佐子の心の中でだけ起きていることであって、みな自体には物語を通してなんら変化はない。彼女は黙って満佐子達の後ろをついていっているだけである。だが、満佐子の疑心暗鬼は止まらない。
 こうした満佐子の心の動きは、『自分自身に対する不安の投影』でもあるだろう。心理学の防衛機制で言うところの「投射」である。投射は、受け入れがたい感情や衝動、観念を自分から排除して他の人がそれらを抱いていると見なすことを言う。つまり、相手の姿に、自分自身を重ねて見ているだけなのだ。
 三島は、「ナルシシズム論」(昭四十一)の中で、女性の自意識についてふれている。

 すなわち、ナルシシズムは、「純粋な外面としての顔が鏡面に出現し、こちらから見る主体が、純粋自意識として作用するとき」に初めて成立するものなのであり、そこに精神と肉体の乖離を前提とする「自意識」という「全然男性的なもの」が客観性を保証するために必要となる。それに対し、女性の精神は、子宮の引きとどめる力によって肉体を離れることが出来ず、鏡の中の像を、自分自身の姿として客観的に批評することが不可能であるゆえ、「女には、ナルシシズムは存在し得ない」と主張するのである。
別冊國文学No.19「三島由紀夫必携」 P.34~35 中井敏之「ナルシシズム」より

 三島の言葉を借りると、「鏡の中の像を、自分自身の姿として客観的に批評することができない」ため、満佐子は、みなに投影した自分の姿を受け入れることができない、ということになる。三島の作品には、彼が言うところの男性的な、正しいナルシシズムにとりつかれた男が多く登場し、彼らのほとんどは、ホモ・セクシュアル的な愛情を向ける相手を持っている。例えば『仮面の告白』の「私」は、愛する男と自分の相似点を、その男を愛するかのように愛していた。こういった描写を、三島が女性ですることはほとんどない。
 つまりみなは、満佐子達「女」へ三島が突きつけた「鏡」なのではないだろうか。みなというキャラクターの背景や心情が描かれていないことは重要ではないのだ。満佐子は、みなを通して自分のありのままの姿や漠然とした不安を察知し、なおかつそれを受け入れることなく、自分の優位性や願望を正当化しようとする。橋を渡るという行為のみに、自分の夢を託すようにして。そんな彼女の生き様は、『天の網島』の主人公達とはまったく違うものである。
 三島は、戦後の「平和」な社会を、ある面では憂いていた。恋人達が気軽に明日の約束をし、それが難なく果たされてしまう近代においては、近松の時代のような「恋」は生まれないと彼は主張している。平和な日常の中で生み出される他愛もない願望は、非日常に直面した時、その儚さを露にする。無言で渡る橋の上、都会の外からやってきた絶対者と向き合い己の姿をつきつけられながら、満佐子達がその願望を貫き続けるためには、おそらく、日常の中での「強い想い」の程度では足りなかったのである。

 『橋づくし』は、「近代」という都市の中に生まれた新しい闇の姿と、消えつつある闇の両方を小気味よく描き出した作品である。新しい闇とは、人のひしめき合う都会だからこそ発生する疑心暗鬼であり、それに伴う心の駆け引きである。消えつつある闇とは、この時代の花柳界などがまだかろうじて持っていた何か得たいの知れない力、近代化の波によって押し流されつつあったある種の悲劇性(例えば三島は、明日どこどこで待ち合わせしよう、と言い合ったカップルが、戦前とは違いやすやすとその約束を遂げてしまうようになったことに関して、「これではもう恋は生まれない」と書いている)だ。
 みなは、近代人である満佐子達が忘れかけていたものを、都会の向こうから運んできた存在である。彼女は何もしない。ただ満佐子達の後をついていっただけだ。何を考えているかわからない人間がいるだけで、人の心がなんと激しく動くことだろう。その様子を見て滑稽に感じる私達にもまた、「客観性」などないのである。巧妙な喜劇は、同じ分の悲劇を抱えている。橋づくしは、喜劇であり悲劇でもあると思う。