山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

映画「怪物」(ネタバレあり)

朝から行政関係の手続きをたくさんして疲れたので、午後は映画を観にいくことに。「アフターサン」か「怪物」かで迷ったが、場所と時間の都合で後者にした。

「怪物」は、社会的意義とか映画としての挑戦とかそういったことを取り除いて素直に感じたままにいえば、私にはあまり刺さらない映画だった。そもそも子どもがかわいそうな目にあう映画が苦手なのだ。もちろんそこで快を与えることが目的の作品のわけがないのだが。

いいなと思ったところ……というか「ここの手触りをもっと突き詰めたい」と感じたのは、メインの少年二人の「自分の感じていることや向かう先をまだうまく言葉に変換できず、だからこそ言葉を用いて自分のおかれている状況を政治的に改善していく力もない」ありかたの表現を観ていたときである。ここは、役者二人の力も相まってとても上手いと感じるところがしばしばあった。逆に急に「脚本」が顔を出すところもあって、まさにキメのシーンだが「好きな人がいるけど言えない、幸せになれないから」という台詞については、私はどうにも違和感をおぼえた。これはやはりこのあとの台詞のための台詞、という感じがする。ともあれ役者は子役だけでなく大人も含め、皆力があって素晴らしかったと思う。

ラストシーンは端的に綺麗だった。ありのままの彼らを、つまり「生まれ変わらなくてよかった」彼らを受け止めてくれる世界は、たしかに今の私にはあのくらい眩しく遠く感じられる。そこの距離の大きさに悲しくなる。まだまだ私たちの世界は大嵐の真っ最中だ。そして小賢しい大人が家の中で嵐をやり過ごそうとしているその間に、もっとも傷ついた人たちから率先して嵐の街に出て、愛する人と手を取り合うために山道に入り、土砂崩れにあって怪我をしたり命を落としたりするのだ。そうならないためには、せめて手と声が届く範囲にいる人にはフェアに振る舞わなければいけない。そこにしか救いはない。

犠牲者が出ないと世界は変わらず、現実世界の犠牲者はどれだけ多くてもすごく見えづらいから、大きなスクリーンを使える映画の中で少年たちが美しく握り潰される。まだまだわかりやすい生贄を必要とするこの社会に忸怩たる気持ちだ。

ところでTwitterで感想を検索したら、「良いショタBLでメリバ(メリーバッドエンド)だった」という内容のつぶやきが大量に出てきて心から不快になった。思うのは自由だし、コンテンツの楽しみ方も自由だ。でも書き残す行為には別の意味が生じる。「ロリ」を同じようなカジュアルさで使うことは減ってきた気がするが、「ショタ」になると急にハードルが下がるのは、これは女性蔑視とセットの根深い問題であろう。かつてミナトやヨリだった人、あるいは今まさにそこを生きている最中の少年少女がそこらじゅうにいる、つまりインターネット上にもいるのだが、それがわかっていてもその言い回しを躊躇いなくできるのかどうか。

男子のいじめだけでなく、教室でBL漫画を読んでいたあの女の子が「いや〜良いショタBLだわ〜」と悪意なく喜ぶシーンが必要だったのかもしれない。