山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

映画「恐怖」

 六、七歳の頃だが、「なんで今この瞬間、私はここに存在しているといえるのか」などという小賢しい疑問にとりつかれたことがあった。幼心に、その疑問に終着点がないことを感じ、これ以上「先」へ進むと頭がおかしくなるかもしれない、という予感に襲われたのを覚えている。この映画『恐怖』を観た時、私は、あの時に私が引き返した地点の、先を垣間見てしまったような気がした。
 人の脳の側頭葉と前頭葉の境界をなす切れ目、シルビウス裂。そこに電気の刺激を加えると、幽体離脱の感覚が訪れるという。片平なぎさ演じる脳科学者は、その生体実験の果てにこそ「人類の霊的進化」があると信じ、自分の娘みゆきをもその実験体にする。
 みゆきは、「人間を閉じ込めている二つの目」から脱した世界に居る。その感覚はいかなるものなのか。カントは、人間が「認識」というフィルターを通してしかつかめないこの世界の、本質的な、「認識」抜きの姿のことを「物自体の世界」と呼んだ。ラカンもまた、似たようなことを「現実界」という言葉で表している。
 世界の、想像以上の真実を見てしまったとき、人は人でいられるだろうか。想像・認識の中で生きていくのが人間というものならば、そこを超えてしまった人間は、もう人間ではいられない。『恐怖』が描くのは、その危うい境の世界である。人間が作り、人間が撮る映画で、人間の世界を飛び越えようとする。それは恐ろしいことだ。
 この映画のタイトルの『恐怖』とは、単に画面に幽霊が飛び出してきてギャア、というのとは根本的に意味を違える。『恐怖』とはそもそもなんだったか? 人間の領域外への畏怖、警戒、予感……それを脳が、我々にわかりやすく伝える為の感覚ではなかったか。この映画は、『恐怖』の想像以上の真実を伝える映画なのである。
 しかし一番私の印象に残っているのは、変わり果てた姿のみゆきに、かおりが「私達、もう姉妹じゃないんでしょ」と少し捨て鉢気味に言うシーン。みゆきは、白濁した目で、じっとかおりを見て何も言わない。その顔には何の表情もこめられていないように見える。だがかおりは、姉のその顔を見て狼狽する――なんとも切ないシーンだった。