山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

本当は痛かった

 会社にいた二年半で悪口やどぎつい言葉というのがすっかり苦手になってしまい、自分の口からもすっぱりばっさりした言葉が出せなくなった。
 言葉が使えなくなると、自然とその言葉にくっついている感情も認識できなくなる。認識できないから、表面に出さなくなる。私の感情は、半分が凍結状態になっていたと思う。そのお陰かここ数年で、私はえらく人当たりのいい人間として認識されるようになった。自分でも一瞬、私も大人になったのかなあ、なんて思っていた。
 でも全然そんなことなかった。感覚を麻痺させていただけ。自分に自分でサイボーグ手術を施していただけだ。

 私は何も変わっちゃいない。折り紙の時間に先生の言うことを無視して勝手な形を作り、クラスメイトの悪事を平気で先生にチクり、それを恨まれて苛められてもそのこと自体に気づかず、気に入らない男子はすぐにぶん殴っていた、3歳の時と同じだ。
 私は本来、エゴイスティックで乱暴な性格である。マイペースというよりはほとんど狂った時間感覚で進んでいるし、超激情家だし、「会話」に対する思想が偏っているので、人から思われているよりはるかに寛容性がない。そういう自分を半殺しにしてきたのがこの2、3年だった。
 
 もしかして私、すんごい麻痺してたんじゃないか? そう思ったのは会社を辞めてからだ。
 最初は、人と会うときに猛烈な嫌悪感が湧くようになった。次に、自分の話をし続ける相手に対して、前よりも円滑に相づちが打てなくなった。顔が引きつって動かないのである。そして電話やスカイプですら、前のように「接待」モードになれなくなった。
 それでも全力でお愛想を振りまいていたら、一回けろりと治った睡眠障害がまた出てくるようになったのだ。
 もう睡眠薬なんて飲むつもりはないので、医者が書いたメンタルトレーニング系の本を読んで、自分の感情整理というものをしてみた。

 恐ろしいことに、
「自分が普段感じる『感情』を細かくあげていけ」
 という課題に対して、私のペンは最初全然動かなかった。「嬉しい」「楽しい」「悲しい」「腹が立つ」くらいは書けたが、その後が一瞬詰まる。
 感情が凍ってしまっている人の中には、感情ではなく、「プレゼントをもらった」などの「状況」しか書けなくなっている人もいるという。私も、考え始めに浮かんだのはそういう状況描写だった。つまり、「今私はこういうことをしている」という状況は思い浮かべられても、その時の自分の中身はガン無視だったということになる。
 色々書いてみて、そのポジティブ・ネガティブの振り分けをしてみると、あまりにもネガティブな感情が多いことにげんなりした。
 
 なんでそんなに我慢ばっかりしていたのか?
 私には「我慢しない権利」なんて無いと思っていたからだ。
 年上の人間と接する時には「自分は年下だから」、年下の人間と接する時には「自分は年上だから」、自分の話ばかりする人間に対しては「そんなに話したいならこっちが譲ってあげなきゃいけないんだろう」と思うから、自分の感情は後回しで、とりあえずその場で相手が怒らない選択肢を提示し、へらへらと受け答えしてやり過ごしていた。頼まれればボランティアのような仕事でもいくらでも引き受けたし、どれだけ自分の生活時間を犠牲にしても他人のスケジュールに合わせた。そりゃあネガティブな感情も溜まるというものである。
 
 今日夕方に家から出たら、ドアの前でゴミが散乱していた。
 ドアの前に置いておいた袋を、どうやらカラスに突っつき回されたらしい。今日は燃えるゴミの日だったのだが、寝坊したため出せなかったのだ。
 酷い有様だった。雨が降っていたから余計に汚らしかった。
 でも、それを見た瞬間にハッと目が覚めたような気がした。
 今の自分の心の状況のように見えたのだ。
 私もこうなるところだった。いや、もうなっていたのかもしれない。

 ともあれその光景を見て、私は「もうやめよう」と思った。
 
 年明けに、「やりたいことはもう我慢しないぞ」と決めた。でも感情のことは何も考えていなかった。自分は大人になって昔よりも情緒が落ち着いたのだ、と思っていたからだ。
 冬の終わりに、ある人に「もっと感情を表現しなければ駄目だ」と言われた。その時も、納得はしたが自分の「麻痺」には気づいていなかった。麻痺した状態からひねり出そうとしてもそりゃ駄目だ。
 私は麻痺していたのだ。
 そういえば、他人の言葉に腹を立てるのはいつも会話が終わって相当時間が経ってからだった。会話の最中は、あまり自分の気持ち(悪い方の)を感じないようにしている。内容を理解し、解決することだけに集中している。私はかなり細かいことで腹が立つし傷つくし、その度にいちいち「今の言い方に腹が立った!」とか言いたくないからだ。
 でもそれが自分なら仕方がない。冗談でも馬鹿にされるのは嫌いだし、役割期待には反吐が出るし、浮ついたことを言う奴には腹が立つし、世間話なんてくそくらえだし、貧困ビジネス的なものに手を染めている奴と話すとぶん殴りたくなる。それで嫌われるならどうしようもない。
 私一人が良い奴でなくても世界は回る。嫌な奴でいい。
 だから、感情をひねり出すんじゃなくて、この麻痺をとっぱらおう。
 ようやくそう思えた。人との会話中にも感情回路をつなげておくのだ。二日後にくる筋肉痛のような、シケた怒りとは手を切らないといけない。
 「心」タンには悪いことをした。長い間ネグレクトしていたような気持ちである。
 
 いきなりは難しいかもしれない。でも私はこれから全力でこの麻痺を治す。友達が半分になるかもしれないが、人生が半分になるよりはマシだ。