山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

ビーチボード

21時。19時前に赤ん坊を寝かしつけて夕食をとり、夫にあとを任せて徒歩圏内にあるカフェにやって来た。

ホットのカフェインレスコーヒーを頼み、ノイズキャンセリングイヤホンを装着し、焦る気持ちを落ち着かせてポメラを開く。イヤホンから流すBGMはエルガーのチェロ協奏曲ホ短調85。ジャクリーヌ・デュ・プレの艶やかなチェロを聴きながら、少しでも手応えのある文章を書きたいと思いながらキーを叩く。でもなかなかそこまで至らない。書いても書いても気はそぞろになり、文章はむなしくか弱くやたらと積み重なっていく。無意識にスマホを触ろうとしては自分をいさめたり、その理性が間に合わなくて画面に浮かんだニュースやSNSの書き込みに一瞬で心を奪われたりといったことを繰り返す。本当はスマホは家に置いていきたいし、持ってくるなら電源を切ってしまいたいところだが、赤ん坊に何かあったときに夫からの連絡を受け取れないのは困るからそうもいかない。

またやってしまった、また文章から注意がそがれた、と思う度に自分を内側から蹴っ飛ばし、スマホを座席後部に放り出して、ポメラの画面に意識を振り戻す。21時半。800字ほど書いたがまったくのゴミだ。怒りにまかせて全力デリートする。真っ白になった画面を眺めていると、ふと家に置いてきた子どもが心配になる。

いつもなら子どもはこの時間に起きたりしない。23時頃にこちらから起こしてミルクを飲ませなければ、夜中の3時頃まで平気で寝続けるはずだ。でもまれに21時半や、22時半といった半端な時間帯に泣いて目を覚ますこともある。今日たまたまそれがあったらどうしよう、という心配が淡く脳裏を走り抜ける。いや大丈夫だ。AIモニターからの通知もない。たとえ泣いて起きたって、夫がミルクをあげればそれですむ。私がいなければただちに子どもが死ぬわけでもないのに過剰に気にする必要はないのだ。なのに不安になる。手の届くところに赤ん坊がいないことに恐怖する。

……また意識が飛んだ。戻れ、戻れ。戻る途中でスマホを触ろうとしないこと!

子どもを産んで五ヶ月、ものを書こうとするときの8割くらいはこういった不毛な苦闘をしている。少しでも気を抜くと四方八方に飛び散っていく注意をかき集め、泳げない小学生がビーチボードにしがみつくように、MacBookポメラのキーボードにしがみついている。そしてしょっちゅう手の力が抜けては水の底に沈んでいる。

産後一ヶ月くらいの頃から、少しずつ文章を書くことを再開した。寝ている赤ん坊のそばで、いろんなツールや体勢でひたすら細切れに書いた。パソコンで、ポメラで、スマホで、iPadで、紙のノートで、メモ帳で。長いものを書こうとしたことも、短いものを書こうとしたことも、何も考えずに書いたことも、アウトラインを作ってから書いたこともある。妊娠中から、いろんな書き方を模索していた。ある程度はいろんな書き方ができるようになってきた感覚もあった。でも、産後はいずれもあまりうまくいっていない。そもそも書き上がるところまでいかないのだ。日記のような断片的な文章なら書ける。でもひとまとまりの、頭と尻がちゃんとある文章にはどうにもならない。

思考が上滑りし、気持ちが焦って胸元までせり上がってくる。それを繰り返していると、無力感でほとほと自分が嫌になってしまう。今の私は、厨二病全開だった十三歳のときより文章が下手な気がする。

なのに、だ。そんな状態でも、次の瞬間には手を伸ばしてキーボードにしがみついている。別に誰もそれを望んでいるわけではない。私が書かないと困る人間なんてこの世に誰一人いない(むしろそこに執着している方が家族は困るかもしれない)。溺れている私に救命浮き輪を投げてくれる人はいない。自分で勝手に水に入り、浮き沈みを繰り返し、自分で持ってきたビーチボードをつかんでじたばたしているだけだ。まことにお恥ずかしいことである。

でも結局のところ、それが私のしたいことなのだ。全然うまくいかなくても、誰も褒めてくれなくても、ゴミのようなものしかできなくても、私は性懲りもなくそこに手を出し続けてしまう。

今はだから、毎日ほんの少しでもいいから「書けた」と思う文章を残したい。一行でも二行でもいいから書いて、それをつなぎ合わせて、「ここまではこれたな」と思いたい。

22時を前に、諦めてポメラを閉じて帰路につく。帰ってスウェットに着替え、歯を磨き、フロスをし、食いしばり防止のためのマウスピースをはめる。お湯を沸かして子どものミルクを作り、残ったお湯を小型の水筒に入れる。ミルクと水筒を持って寝室に入り、子どもにミルクと乳をやって一緒に寝よう。

そうしてまた、書こうとする新しい一日を待つ。