山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

いくわ、きっといくわ。

 講談社の「少年少女世界文学界」シリーズが好きで、いくつか読んでいる。これは、文章のあちこちに注釈がつけられていて、ページの上部に、イラストつきでその解説が載っているのが特徴だ。注釈があるから、原文をそのまま訳したような、古めかしい言い回しも結構そのまま載せられている。なので小さい子どもには多少難しいんだけども、とにかく注釈がおもしろくて勉強になるため(鳥の羽で作られた飾りのついた帽子、管を通る風が奏でる手回しオルガンの音、透かし模様に作られたレース…)、私は大好きだった。今でも、読み返してはそれまでに読み飛ばしていた部分を見つけて「ほう」と思う。「ロビンソン・クルーソー」とか「ガリバー旅行記」の注釈はおもしろかったなあ。
 うちには15年くらい前からシリーズ16の「アルプスの少女」があって、私はこれを、数十回は軽く読み返している。小学生の時ずっと読んでいて、22歳になった今でも時々読み返す。

 今日なんとなく読み返していて、思わぬところでボロボロ泣いてしまった。
 クララの主治医クラッセン先生が山に遊びに来たときのことを書いた章。先生は妻に先立たれていて、最近一人娘も亡くしている。なのでとても憔悴していたのだが、山の自然とハイジの快活さに、少し癒されて町に帰るのである。
 先生は、フランクフルトに帰る道のその途中で、ハイジに言う。

「ハイジをフランクフルトに連れて行って、うちの子にしてしまえたらいいんだけどねえ」

 ハイジは返事に窮するが、勿論これは冗談なので先生はそのまま行こうとする。その目に涙が光っているのを見て、ハイジは思わず泣きながら「先生のうちの子になる」と口走る。そんなハイジに、先生は言うのだ。

「それはいけないよ、ハイジ。いまはもうすこしもみの木の下にいなさい。さもないと、きみはまた病気になっちゃうだろう? でもね、答えてくれるかな? もしわたしが病気になって、ひとりぼっちでいるようなことがあったら、きみはきてくれる? そばにいてくれるかな?」

 この台詞がなんか、泣けて泣けて。本を持ったまま、ぼたぼた涙をこぼしていた私。
 不思議だ。ここ一年くらいの間に、何回かは読み返してるのに。なんで今日に限ってこんなに泣けたんだろう。
 今思えば、「病気になってひとりぼっちでいる」というシチュエーションの哀しさって、子どものころにはほとんどわかってなかったね。今読むと、このクラッセン先生の身の上の孤独とか、かなりくるものがある。
 きみはきてくれる? そばにいてくれるかな?
 この問いかけの切なさは……たまらん。そう尋ねる相手を求めて、それにイエスと答えてくれる相手を求めて、人はきっと何十年も生きるんだもの。

 いくわ、きっといくわ。あたし、先生のこと、おじいさんとおなじくらい好きよ。

 その答えを聞いて、先生はフランクフルトへ帰っていく。「生きるのがまた楽しくなった」と一人ごちながら。
 うーむ、良いシーンだなあ……。
 私が病気になって一人ぼっちでいるとき、駆けつけてそばにいてくれるような人、家族以外にいるんだろうか?