山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

荻田浩一のこと

 いつかは溶けて消えるように
 誰もが君を忘れてゆく

 バウ・ミュージカル、『凍てついた明日―ボニー&クライド―』のメインテーマ曲、「ブルース・レクイエム」の一節である。
 荻田浩一の演出する世界は、いつも悲しい。彼が描くのは、誰かに忘れられること、何かを諦めること、終わらない夜があることをわかった上でそれでも求めてしまう美しい夢、人の心の中のちょっと浮いた部分にしかない儚い煌きの世界だ。彼はその、決して現実に降り立つことのない幻想を、切り込むような鋭い言葉と色彩、歌とダンスでこの世に立ち上げようとする。そこに手を添えるのが、宝塚歌劇団の妖精達である。
 宝塚歌劇団は、言うまでもなく極めて特殊な世界だ。全員が「女」という性別を共有していながら、「男役」「娘役」という虚構の性別で出来た羽を身にまとい、幻想の空へと舞い上がる。「全員が女である」という現実は、決して軽んじられているわけではない。それは碇のように地面に下ろされており、その碇の重みこそが、彼女達をめくるめくような虚構の高みへと羽ばたかせる。女が男を演じることで生じる「歪み」は、現実世界に存在しようのないある種の幻想を、ほんのひと時実在のものにすることができるのだ。
 荻田浩一が、自分のフィールドとして宝塚という場所を選んだのは当然だと思う。彼が描く世界は、宝塚でしか表現できないものを含んでいたと感じるからである。
 レビューロマネスク『パッサージュ―硝子の空の記憶―』は、荻田浩一が初めて手がけたレビューであり、彼の世界観の原点とも言える作品である。
 鉄と硝子で作られた古いアーケード「パッサージュ。一昔前のパリの光景と共に、夢心地の物語が紡がれる。
 舞台奥で一人軽やかに踊る天使(朝海ひかる)を背に、白い衣装をつけた少女が歌いだす場面から、レビューは始まる。
 「天使の夢を見たわ。真夜中にひとりきり、白い翼広げて、夜に浮かんでいた……」
 天使の夢を見たと語る少女(紺野まひる)、舞台上のその光景の更に前方の銀橋で、詩人(轟悠)が歌う。少女もまた、詩人の夢の登場人物であった。夢が二重の入れ子になった、不思議な光景がしばし繰り広げられる。
 天使役の朝海ひかる雪組きってのダンサーであり、華奢な体躯と中性的な美貌で人気のスターであった。反面歌は苦手である。荻田浩一は、彼女に全編通してほとんど歌わせず、徹底的に、踊りと美貌を強調する演出をつけている。スターシステムの強固な宝塚においては、スターそれぞれの特性よりも「番手」が優先されることがしばしばあるが、荻田浩一は、そういった規制の中でも、なるべくスターの個性を活かそうと努力する演出家だった。
 二場では、宝塚らしい群舞が披露される。男役の真骨頂黒燕尾、娘役は淡いあめだまのような色のドレスで舞い踊る。華やかな群舞が終わると、トップ男役の轟悠が、軽妙なシャンソンを歌いながら銀橋を渡る。パリの町並みへの導入である。
 四場の舞台は黄昏のパッサージュだ。パリの裏通りの硝子の屋根、薄汚れたカフェがある。舞台天井から、パッサージュをイメージした、黒い格子と照明をつけた青い透明なパネルが静かに降りてきて、タイトルにそった光景が繰り広げられる。だが、ここはまだ作品の核となる場面とはならない。核となる場面を際立たせる為の、「生の猥雑さ」に満ちた世界なのだ。
 ここでは、男も女も、生活に倦み疲れて、思い思いの疲弊を硝子天井の下でぼやいている。痴話げんかをしている男女、失業して酔いつぶれている男、せわしなく歩き回るギャルソン達。「チム・チム・チェリー」のアレンジ曲がBGMだ。そんな、ごちゃごちゃと人のひしめきあう薄汚れたカフェで、一組の男女が出会い、恋に落ち、そして別れる。宝塚には定番のシチュエーションだが、ここの演出でおもしろいなと思うのは、デュエットダンスの途中で、相手役を変えるところである。出会うのは、トップ娘役月影瞳と特出男役スターの湖月わたるであるが、踊っている最中に、「幻想」という役名を持つ男女(天希かおりと森央かずみ)が現れ、それぞれパートナーを取り替えて踊る。しかも、取り替えたことを自覚していないような、幸せな表情で踊るのだ。恋が幻想であることを象徴するようなこのシーンは、後の伏線ともなっている。
 パリの街角の描写は続く。男と別れた女とすれ違った別の青年(絵麻緒ゆう)は、ジゴロと娼婦がたむろす裏町へと彷徨い出る。軽妙なシャンソンから始まり、この辺りでは大分雰囲気が暗くなってくる。
 そして、青年がたどり着くのは、黒硝子のサーカス小屋だ。地獄のサーカスが繰り広げられる中、少女が檻の中に囚われている。彼女は、片翼をもがれた堕天使であった。青年は少女を助けようとするが、地獄の王(轟悠)の誘いによって、二人は結局、地獄の住人としての満足を得る。白い服だった少女も、普通の服装をしていた青年も、最後のシーンでは黒衣に身を包んでおり、地獄の王の下で二人は深く微笑むのだ。
 これは、ハッピーエンドか、もしくは美しい悲劇をもって良しとする宝塚ではめったに見られない、サタニズム的な雰囲気を持った「堕ちきる」描写である。それをあくまで「宝塚的」にまとめているのは、場面の美しさの力だろうかと思う。こういった美しさこそ、宝塚でしか表現し得ないのではないだろうか。これを生身の男女でやってしまったら、極めて現実的な、極めて救いのない光景になるはずである。虚構に虚構を塗り固めて実存の肉体を作り出している宝塚だからこそ、なんとなく現実味のない、ふわりとした印象で終わるのである。
 第七場が、この作品の核とも言えるシーンである。場のタイトルもずばり「硝子の空の記憶」。崩れかけたガラスの廃墟で、一人の女(五峰亜季)が、死の世界へ足を踏み出そうとしている。それを引きとめようとするのは、今まだ生の世界にとどまっている彼女の恋人(天希かおり)だ。雪組指折りのダンサーコンビが、荒涼とした舞台の上で、生と死のもつれを表すかのように力強く踊る。カフェのシーンとは対照的な、だがどこか印象の被る光景。
 そこに現れる一人の男(轟悠)。彼は、一人の女(月影瞳)に出会う。この世で何千回何万回と繰り返されてきた男女の出会いが、群舞で表現される。全員が無機質なトーンで、淡々と踊る。舞台は広々と解放され、音楽は、宝塚には珍しい打ち込みである。ここの音楽を担当しているのは斉藤恒芳だ。
 斉藤恒芳は、荻田浩一が多用する作曲家である。彼はアニメ「蒼弓のファフナー」などでも有名な作曲家であり、スケールの大きい、幻想的な曲を得意としている。
 舞い踊る男女がはけていったその後、背後にそびえる硝子の門には、いつの間にか冒頭の天使(朝海ひかる)が立っている。楽しそうな表情はそのままに、白い衣装は何故か灰色に染まっている。彼は、出会ってしまった男女を見つめ、何かが気になるように視線をとどめる。と、その光景にクロスするように、「白い光」の男役達が現れ、幻想的な踊りを舞う。そしてそこをつっきってやってくるのは「少女(紺野まひる)」だ。無垢な表情で飛び跳ねる彼女の服もまた、白からグレーへと変わっている。彼らがいなくなったがらんとした舞台の上で、男は、一枚の硝子板を拾う。それを天にかざし、まぶしげに顔をしかめる男を見て、天使ははっとしたように立ちすくむ。男は無機質な表情のまま、女とすれ違い、別々の道へとはけていく。二人の間で天使は悲痛な表情を浮かべ、何かを諦めるように首をふると、門の向こうへ消えていく。
 不思議な筋である。こまかな演出(天使の服の色の変化など)は目についても、それが全体を通してどういう意味合いなのか、いまいちよくわからない。だが、このシーンを見ると、私はいつも激しい喪失感に襲われる。天使は、朗らかに無垢なままではいられなくなってしまったのだ。同じように灰色に染まってしまった少女はいまだ何も知らずに微笑んでいるが、かつて天使の夢を見ていた彼女もまた、気づかないうちに何かを失っている。男が拾った硝子は、何かが砕け散った後の破片だ。何が失われたのか、損なわれたのか、それはわからない。だが、生と死のせめぎあいの中、失わずには通れない何かを、あの天使は悼んでいるのである。
 荻田浩一は、作品の中で必ず「喪失」と「痛み」、そして「孤独」を描く。ただ甘ったるいだけの失恋や、ただ悲しいだけの別れとは違う、胸にきりきりとくるような、美しく哀しい世界が描かれる。そしてその「美しさ」とは、醜さを含んだ美しさなのである。
 例えば、二〇〇四年の作品「ドルチェ・ヴィータ!」のメインテーマ曲には、こんな一節がある。

  蒼く揺れる波の下に砕け散った夢が眠る 
  ひとかけらでも手に入れたくて 
  もがく姿をあざ笑った

 波の下に砕け散った夢が眠る、というところまでは普通なのである。だがその後に、それを手に入れようとしてもがく姿が、そしてそれがあざ笑われる様が歌われる。そういう「みっともない」ところまでつきつめるのが荻田浩一なのだ。そしてそういった美しさ・醜さの全てが「いつかは溶けて消えるように」忘れられていくことを彼は知っているのである。

 彼は二〇〇八年、『ソロモンの指輪』で宝塚を退団した。劇団の枠を離れ、一人の演出家として自由に活動していきたいという。
 誰もが君を忘れていく。
 私も忘れられていく。
 そのことを理解し、忘れられていくものの一瞬の輪郭をとらえることのできる荻田浩一の作品を、私は愛してやまない。彼の傷つきやすさ、優しさ、残酷さは、私達が持っているものとまったく同じだからだ。
 彼はこれからもきっとずっと、私達と共に、硝子の空の下にいるのである。