山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

卒論に向けてのメモ4

 何度か言っているし、書いてきてもいるように、私のマンガ・アニメ体験というのは少々偏っていると思う。私は、音楽はクラシック、映画は古典、アニメはディズニーと『ドラえもん』、マンガは手塚と『サザエさん』、という古めかしい環境で育った。教育的に云々というより、両親が(特に父親が)そういうものを愛していたからである。好みというのは親に作られる要素が大きいし、今となっては証明のしようがないが、私は生まれつきそういうものが好きなタイプだった気がする。小さい頃、外でどんな作品を見ても、大して心動かされなかった。『ドラゴンボール』も、『セーラームーン』も、私にとってはどちらかというと不気味なものだった。下ネタの類が気持ち悪くて耐えられない子供だったため、『クレヨンしんちゃん』や『学級王ヤマザキ』は見るだけで「うぎゃあ」となっていた。
 生まれつき病弱だったので家にばかりおり、家ではディズニーばかり見ていた。私は偏狂的に一つの作品を繰り返し見るタイプで、一日に3,4回同じビデオを見るようなことも平気でする。特にミッキーのビデオなんかに関しては、傍らの母親がノイローゼになりそうなくらい見ていたらしい(ちなみに絵本の読み聞かせも、私は一冊につき3回は要求していたそうだ。私がおかんだったらキレる)。今でも覚えているのだが、私は当時アニメを「完全に記憶すること」を目標に繰り返し見ていた。絶対無理だとわかっているのだが、それでも、好きなシーンだけでも脳内で完全再生が可能なようにしようとものすごく努力していた。セリフだけではなくて、音楽のタイミング・強度、背景の色合いなど、細かなディティールももらさず目と耳に焼き付けることを心がけていた(実は今もそう)。
 実写映画は『サウンド・オブ・ミュージック』『メリー・ポピンズ』『チキチキバンバン』『赤い風船』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『オズの魔法使い』辺りがよく見ていたラインナップだが、この中だと『サウンド・オブ・ミュージック』『チキチキバンバン』の見返し率が異常。とにかくどれだけ見ても飽きず、ひたすらその音楽の美しさ、光景の美しさ、人の体や声がもたらす美しさに耽溺していた。
 実写映画よりも、アニメーションの方が記憶が容易い。小さい時の私はそう思った。それは当たり前で、実写より、アニメーションの方が情報が少ないからである。「必要なものしかない」からだ。ではそれは何のために「必要な」ものなのか? 物語のためか?
 文字が読めるようになると同時に、『サザエさん』全巻と、『ブラックジャック』『火の鳥』『W3』『ロック冒険記』『どろろ』、あとついでにウォルト・ディズニーおよび手塚治虫の伝記をどかんと父親にプレゼントされた。私はのめりこみ、母親に本を隠されるくらいハマってむさぼり読んだ。アニメですら一日3回見る私が、本をどれだけ読んだか。
 手塚マンガは私の趣味に、というか精神に、魂に、ぴったりとハマりこんだ。伝記を読んで、自分が手塚と結構近い趣味をしている(おこがましい書き方だが)のを理解した。私もディズニーが好きで、クラシック音楽が好きで、その頃はまだ宝塚は知らなかったけど、ミュージカルの映画や舞台が大好きだった。手塚マンガは、とても宝塚に似ている。ヨーロッパやアメリカの舞台・風景を、派手さはなるべくそのままに、日本用に翻訳した舞台が宝塚(レビュー導入後)だ。舞台の上に広がるジャパニライズされた海外、それはフランスでもアメリカでもなく、「どこかの異国」なのである。そして舞台の上で踊るのは、「男役」「娘役」という、男女とは違う性を纏ったまさに「異形」の麗人たちだ。そうした世界観が、手塚マンガに与えている影響は非常に大きい。手塚は、海外の映画やウォルトディズニーからの影響を、宝塚的に濾して、そして勿論そこに彼自身の溢れる表現を継ぎ足して、たくさんの物語を紡いだ。
 私は西洋音楽や古いハリウッド映画ばかり吸収していた上、幼稚園がカトリックだった。絵本・童話も思い返せば海外の古典が多かった。私は海外文化に直接触れていたわけではないが、小さい時のことを考えると、むしろそちらへの親和感が強かったように思う。手塚マンガは、私のそういう面とも相性がよかったのだと思う。
 手塚の生涯のテーマは「命」だった。陰惨な作品もあるが、それでもやはり、生命を描こうというその姿勢は、ほとんどの作品において変わらない。
 ディズニーもまた、「命」を描こうとした作家だった。「アニメーション」――絵に命を吹き込むことに人生をかけた人だった。美麗なる色彩に飾られた、1秒間24コマのフルアニメーション。それは私に、生命の息吹を感じさせる力を持っていた。『白雪姫』『シンデレラ』『ピーターパン』『ダンボ』『眠れる森の美女』『わんわん物語』、そして『ファンタジア』――。
 実は劇場で観たディズニー映画は、ピクサーをのぞくと『ポカホンタス』一作だ。8歳の時だった。自分の、劇場での原体験的なアニメ映画はなんだろうとずっと考えていたんだけども、『もののけ姫』より『ミュウツーの逆襲』より『ドラえもん』より『ポカホンタス』らしい。久々に見返して、自分が思っていた以上にこの作品に影響を受けていたことを理解した。私は第二次黄金期と呼ばれる『リトル・マーメイド』以後のディズニー作品はそれほど見返していないので、ずっと忘れていたのである。その頃、物語をきちんとかみ締めることはできていなかったと思う。正直退屈なシーンもあった気がする。また、『ポカホンタス』はディズニー映画史上最もバッシングを受けた作品で(ネイティブアメリカンの関係で)、そのせいであまり表にも出てこないのだ。しかし、ラストシーンの鮮烈さ、これはやはりディズニーアニメの真骨頂だなあと思う。劇中歌が、これほど上手く機能しているエンディングもそうそうない。
 こういう演出が私は大好きだ。生理的に好きだ。これはもう性癖のようなものでどうにもならない。例えば『眠れる森の美女』のラストシーン。ハッピーエンド定番のワルツを踊るオーロラのドレスに、妖精が魔法を投げかける。ドレスの色が、光の飛沫と共に変わると同時に、BGMが厚くなりヴォーカルが挿入される。その瞬間の、絵と、その動きと、音楽が合う刹那の魔法のような美しさ。例えば『ピーターパン』のラストシーン。大きな月をバックに、ゆっくりと遠ざかっていくネバーランドの帆船。「そうだ、私も昔確かにあの船を見たよ。遠い昔、子供の時のことだ……」ネバーランドを否定していた父親がそう言って家族を抱き寄せる、その光景が窓の枠とともに夜景に遠ざかっていく様、「You can fly」の旋律。
 映画と音楽は、時間軸の上に構築する芸術である点で同種なのだ、と久石譲が昔『もののけ姫』のインタビューで言っていた。その発言を見る前に、私は小さいころから強く信じていた気がする。アニメーションは、美しい音楽と共になければならない。もしくは、アニメーションは、美しい音楽のようでなければならない。音楽は、私にとって「時間を彩るもの」であり、時間の体感=生命を感じ取る一つの要素とすれば、美しい音楽やアニメはまさしく私にとって、生命の息吹を感じずにはいられない、彩色された時そのものなのだった。マンガでも同じだった。手塚のマンガは、一本一本の線が、生の躍動を描いている。そこにひたる時間の中で、私はちゃんとその旋律を感じていた。
 マンガ・アニメ表現の中に魂ごと突っ込んでまた戻ってくる、そうした運動の中で、私は確実に人生を肥やしてきたと思う。その幸せな命の肉が、その後の人生における困難において、どれだけ私を救ってくれたことか。
 私にとってマンガ・アニメは、私の命を膨らませる栄養だ。命そのものではないが、なぜかその息吹を含んでいる。そこで私は魂の充電が出来る。美しいとは勿論、西洋絵画的な美しさのことのみを言っているわけではない。手塚が描く作品のように、ディズニー作品にときおり覗く儚さのように、なにかむごい、悲しいものをも含んだ美しさのことだ。それを求めて、私はアニメやマンガ(当時作家が固定されていたとはいえ)に触れていたのだ。


十代の頃⇒近親者の立て続けな死
萩尾望都
・特撮(ウルトラマンシリーズ・カーレンジャーメガレンジャー
幽遊白書をはじめとした少年漫画の猛烈ブーム
・FFとテイルズと幻想水滸伝
・ミュージカル舞台(宝塚・歌舞伎)

 明るくない話題で申し訳ないが、私は結構人の死に目にあってきている。といってもまあ本当に親しかった人間はそのうち4人くらいなのだけども、それでも、9歳の時に父親を亡くしたのはやはり結構大きな体験だった。「命とはなんだろう」と考えた……と書きたいところだけど、私は割りとその出来事を冷静に受け入れた。親父が死ぬとわかった時は泣いたが、それ以外の時に泣いて嘆き悲しんだ覚えはない。人が生き、死ぬことはそこまで不思議なことではないと知っていた。妹と弟がいるので、「生まれる」ことも含めて、生にまつわる出来事とは全て「めずらしくない」ものなのだと悟っていた。父親は、映画や文学を私に叩き込むことで、そういうことをこそ教え残していたと思う。私は親父の43の時の子供なので、生涯通してワーカホリックだった親父は、「未樹は俺がいつ死んでもいいように鍛えておかないと」というようなことをしょっちゅう言っていた。勉強もスポーツも強要された覚えはない。ただひたすら、良い音楽や映画、文学に触れることを教えられた。それが魂の特訓のようなものだったと思う。個人的な体験レベルのことだから証明はできないけれども、人の死に目に合うたびに私は、自分の中に蓄積された、フィクションとの戯れから得たものの恩恵を感じた。具体的な作品名とか、その中のエピソードが役に立ったというのではない。色々な美しい鑑賞の記憶がろ過されたあとの透明な上澄み、それこそが、私の人生を支え、自我を守り、羊水のごとく魂を包んでいるのである。
 父親が倒れてから死ぬまでの一ヶ月というのが、これまた私にとっては結構特殊な期間で、この一ヶ月の間に、ウルトラマンを死ぬほど見た。当時三歳の弟の気をまぎらしておくためだったのだが、兄弟全員で真剣にハマッてしまい、日夜研究を重ねていた。特に好きだったのが『ウルトラマンレオ』で、ノストラダムスの大予言ブームの時に生まれたこのヒーローは、一族皆殺しにされ地球に亡命してきた挙句、物語途中でヒロイン及び仲間全てを惨殺されるという、ウルトラマン史上類を見ない波乱万丈キャラである。そんなキャラに特に入れ込んでいた当時の私達の心理状態は、それこそ児童心理学的にいえばなんか色々あるのかもしれないが、とにかくこの時期をきっかけに、私は一気に「バトルもの」が好きになる。しばらくは特撮にハマり、ゲームもどんどんRPGをやるようになり、その後で『るろうに剣心』を知り自分も武道を始め、中2の時に幽白の再放送を見てからは脳みそが少年漫画一色になった。
 子供の時怖くて近づけなかった乱暴なマンガに、私はぐんぐんのめりこんだ。多分、幼児期のアニメ体験では消化できていなかった部分を、ここで一気に開放したんだと思う。グロは嫌いだったが、血まみれのバトルものもガンガンイケるようになった。この時期、私は美しいものよりも、戦いのカタルシスを持つ作品を好んだ。手塚も変わらず読んでおり、萩尾望都にもハマったが、それよりもまずは幽白やスラダンが優先だった。
 しかしこの“熱い”時期は割とすぐ消えた。一年ももたなかった気がする。読みつくすと、それで終わりだったのだ。一通り読み終わった後に出た作品を手にとると、もうそれらは私には合わなかった。手塚作品やディズニーアニメのように、何度も何度も入れ込んで鑑賞するようなものはほとんどなかったのだ。
 丁度その頃から、周りの人間が「オタク」「非オタク」に明確に分かれ出していた。時代は2000年、『バトロワ』『テニプリ』『最遊記』『CCさくら』『どれみ』など、エヴァ後の若いオタクを狂わす作品が目白押しだった頃である。それらの熱狂を見ながら、私は一人取り残されていた。どれもおもしろいくらいハマれない。面白さを理解することはできるのだが、私がその中にたどり着くことはできない。さめているのとは違う。私はそれらへの関心を捨てられない。興味深い。面白い。でもその「おもしろい」は、作品に群がる人たちをも含めた、やけにメタ的な見方の面白さだった。今にいたるまで、その感覚はもう抜けなくなっている。よく言うように私には今のマンガに対する「萌え」回路がほとんどないし、BLリテラシーはあるがそっちの欲求もない。私にとっての“本当の“おもしろい、魅力的な作品というのが、急速に減っていっているように感じた。
 そして今に至るまでの感覚を言えば、マンガもアニメもどんどん貧相になっていっているというのが正直なところだ。絵は昔よりもうまい人が増えただろう。音楽も、すぎやま・植松や菅野よう子を始めとした作曲家達のおかげで20年前とは比較にならないほど多様化し、あらゆる作品の発表の枠は、それこそかつての100倍に膨れ上がった。しかし私の評価は下がる一方だ。私は古いものが好きだが、古いものの方が良いという決め付けはない。古典的でベーシックなものが好きだからこそ、新しいものをよく吸収できるという面もある。実際、私には「受け入れ難い」作品というのはほとんどないし、どんな作品の良いところも、一つは必ず見つけ出せる自信がある。それはやはり、ある程度“基本”を押さえているからだと自負したい。だがにも関わらず、私が感じる「貧相さ」は増すばかりだ。毎週ジュンクにバイトに行く度に、25万冊のマンガの中で半ばうんざりする。ひどく薄っぺらなものの中にいるような気分がしてくる。どこかで見たような絵、どこかで見たような話、ただ萌えを追求し赤字まみれになっている雑誌達、身体性への訴えの何もないただ乳を出しているだけのエロマンガ、何言ってるかさっぱりわからないラノベ。ジャンキーな書籍の群の中で、全てどうでもいいような気がしてくる。にもかかわらずこの興味関心がうせることは無いのだ。つまらないものと思っているのなら離れればいいのに、私の意識はここに舞い戻る。
 それは何故だろうか?
 答えに感づいたまま、しっかりと言葉にせずにきたこの問いに、今こそ答えようと思う。

 私にとってアニメもマンガも、命を描くべくして、そして命を感じさせるべくして生み出されるものだった。だがあえて言い切ってしまえば、アニメもマンガも、「命そのもの」にはなれない。「命」とは何か、という定義をするのは難しいが、ひとまず人間や動植物に当てはめた単純な考えとして、他の生命から生れ落ち、栄養を摂取することで自力で成長し、そして次世代の命を産み落とし自分で滅びていく、そのことができるものを仮に「命」と呼ぶならば、(抽象的な意味は除いて)やはりマンガやアニメを「命」と断定することはできない。アニメやマンガは、あくまで「命」を描く何かであり、そして「命」とは当然のことだが、簡単に描けたと言えてしまうものではない。
 随分前に、宗教画とイデアについての興味深い話を読んだ。宗教画は神を描くが、人に描けてしまう神など当然だが神ではない。人智を超えたものこそが神であるのだから、それは人に描ききられてしまえばその効力を失う。永遠に未到達の境地こそがイデアであり、宗教画とは、「そのクオリティの高さで、イデアへの到達不可能性・ハードルの高さを見せ付ける」ことによって逆説的にイデアを描くものなのだという。つまり、宗教画とは最初から「負け戦」なのだが、負け戦と了解してまけることを前提に戦うのは大間違いであり、絶対に勝つと信じ、そのための全力の戦いをし、そして正しく打ち破れる必要のある戦いなのだ。
 ここで簡単にまとめてしまえば、私にとってアニメやマンガは、「命のイデア」を描き、そこへの到達不可能性を示す何かなのだと思う。なんだか大げさなもののようだけど、別に壮大な物語やめちゃくちゃ描き込んだ絵である必要は無い。手塚の絵はシンプルだ。ディズニー映画では重たい死は描かれない。にも関わらず「命を描こうとしそして敗れた」戦いの軌跡になり得る。画面には、命を作り出すのに必要なものしかなく、そこには多くの人の、あるいは一人の強い熱意がこもっていると信じられるからだ。
 今は、アニメもマンガも、ある意味インスタントなものになりつつある。アニメもマンガも、素人が比較的手軽に作れるご時勢だ。インスタントに作られ、消費されていく作品に私が不満を抱くのは(勿論その中でも大作や、良作がたくさんあることはわかってる)、それによって「命のイデア」が貶められるような気がするからだ。そしてそれでも離れられないのは、それでも生命自体が侵されることは決してないと思っているからだ――今のところ。
 正直、この先はわからないと思っている。アニメやマンガばかりを見て育った人間は、身体感覚が乏しいと思う。「今の若い子は体が描けない」と嘆く宮崎駿に、押井守が「当たり前だろう。今の子達には身体感覚がないんだから」と思ったというエピソードがあるが、私にも似た様な記憶がある。少し前に旭丘高校美術科の卒業展に行った際、飾られていた人物画に、はっきりとマンガの線を見たのだ。同行のOBに聞くと、「やっぱり段々そういう絵は増えてきてますよ」と言う。私達の世代にとっては、生まれて最初に自覚的に触れる絵とはもはやマンガだろうし、戦争よりもアニメの方が、学生運動よりもコミケの方が身近なのだ。そこで作り上げられる身体感覚、生命観、そういったものが、今後どのような形を作っていくのか、そしてそれがどんな“命”を結んでいくのか、私は、それを考えなくていいとはどうしても思えないのだ。
 私はアニメやマンガが、私達の命に与える影響のデカさを重く見ている。特に今後の日本において。