山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

ミュージカル・テニスの王子様「The Final Match 立海 Second feat. The Rivals」

 『ミュージカル・テニスの王子様』は、マンガ『テニスの王子様』の舞台化作品で通称を「テニミュ」という。これまで生観劇の機会に恵まれなかったのだが、先日の名古屋公演でようやく劇場に足を運ぶことができた。公演名は「The Final Match 立海 Second feat. The Rivals」。最終戦にはなんとか間に合ったというところか。
 一月の寒い日のことだったが、観劇の興奮は私に寒さを忘れさせた。帰り道でも、手の平の肉は、叩き続けた手拍子による痛みを記憶していた。それは先ほどまで、プルニエホールで観劇を共にしていた千人とわかち合った痛みだった。
 地下鉄のホームで耳に残る歌を口ずさみながら、私は存在しないボールについて考えていた。「テニミュ」はテニスを題材にしたミュージカルだが、小道具としてボールが使われることはほとんどない。キャスト達は、ラケットでただ空を打つ。ガットがボールをぶつ爽やかな効果音と、複雑にからみ合う照明が、そこにあるボールの輪郭を浮かび上がらせる。キャスト達が真剣に追いかける不在の球。私達観客もまたその軌道を見る。ボールはない。けれども見える。キャスト達の額に浮かぶ汗、あの汗が、球のなきところから生まれるだろうか。二千個の目玉が見えないものを見ているという事実に、改めて感嘆せざるを得ない。
 「テニミュ」は、そもそもはメディアミックスの一展開として上演された作品であるが、二〇〇三年の初演以来、二〇〇九年までの累計動員数九〇万人以上、DVDの販売本数五〇万本超と聞けば、そこに宿る、ひとつの独立した舞台公演としての力は疑うべくもない。劇団四季宝塚歌劇団ですら集客にはそれなりに苦労する昨今、売れ筋のアイドルを使うこともなく、通常公演で日本青年館(収容人数約千三百人)を、コンサートイベントで横浜アリーナ(一万七千人)を観客で埋め尽くすような舞台作品は、他にはなかったのだから。
 この大ヒットをうけて、類似の舞台化作品の上演が相次いだ。たとえば、二〇〇五年には『テニスの王子様』と同じく『週刊少年ジャンプ』連載の『BLEACH』が、二〇〇六年には『NARUTO』が、二〇〇七年には『週刊少年マガジン』連載の『エア・ギア』がミュージカル化されている。後続の作品群はどれも「テニミュ」ほどの人気には至っていないが、二〇一〇年になっても「舞台化」予定の作品は多く、演劇という手法が、メディアミックス展開の一つとして定着する気配をひしひしと感じるのである。演劇好き、ミュージカル好きとしては嬉しいことだ。
 数字だけ見ても、この作品が、二〇〇〇年代の「舞台化」シーンにおける革命的作品であったことは間違いない。しかし、この事実について、これまで充分に言及されてきたとは言い難いのが現状である。
 例えば、二〇〇九年十二月に発行されたサブカルチャー批評誌「PLANETS SPECIAL 2010 ゼロ年代のすべて」は、オタク系コンテンツ批評を中心に、TVドラマ、音楽、お笑いなど、様々な分野でのゼロ年代総括批評を掲載している。「演劇」にも誌面がさかれているのだが、その中でも、「テニミュ」についての言及は
 
 (中略)また、マンガにそっくりないわゆるイケメンたちが出演するテニミュこと『テニスの王子様ミュージカル』がはじまったのも03年。今ではすっかり巨大なマーケットとなっている。
(「ゼロ年代のすべて」P.184 「作家の演劇と、スターの演劇」木俣冬)
 
 というごくわずかなものである(もっとも、この章の目的はひとつひとつの作品を取り上げ詳しく言及することにはないので、当然といえば当然のことだ)。
 また、二〇一〇年二月には、女性誌「an・an」1696号で初の「テニミュ」特集記事が組まれた。しかしこちらも、対象が「一般」女性ということもあり、初心者向け紹介記事に留まっている。
 マンガからアニメへ。それはもはや当たり前の光景となった。しかし「マンガから舞台へ」という道筋について、私達は無関心でいすぎるのではないか。見えないボールは、私にそのことを考えさせる。
 「テニミュ」の持つ力とはなんだったのか。原作のマンガ『テニスの王子様』と、『ミュージカル・テニスの王子様』の間にあるものに、目をこらしてみたら、わかるのだろうか。

 ミュージカルというのは、元来奇妙なものである。
 登場人物たちは大抵、物語の最中に突然歌ったり踊ったりする。
 当たり前の話だが、原作に歌やダンスは出てこない。『テニスの王子様』は、テニスの名門校青春学園に入学した主人公の一年生越前リョーマが、部活動テニスを通して、様々な強敵と戦っていくというストーリーの少年漫画である。当初は普通のテニス漫画だったが、連載が進むにつれ、人間離れした「必殺技」(驚異的なスピードで分身する、打球の威力でプレイヤーが客席まで吹っ飛ぶなど)が頻出するようになり、そのある意味大胆な作風でも話題を集めた。そこで追求されているのが、「リアルなテニス」とは違ったものであることは明白だが、描かれているのはあくまで少年漫画的な「バトル」としての非現実であって、歌やダンスを許容するものではない。
 もしも、誰も歌わない踊らない世界、現実世界のような空間を「自然」とするのなら、ミュージカル舞台はまさしく「不自然」の権化である。しかし、舞台を「不自然」とするならば、マンガの「自然」さについても考えて見なければなるまい。そもそもマンガは「自然」なものだっただろうか? マンガは線画だ。どんなにリアルな絵柄であろうとも、どんなに現実に近い出来事が記されていようとも、それは作者の解釈を通したフィクションであり、イラストであり、ファンタジーである。それは『テニスの王子様』も同様だ。
 マンガと舞台。どちらも「現実」という自然からは程遠い「不自然」の産物である。
 もちろんそうはいっても、二次元と三次元の壁は厚い。マンガが不自然でないから、不自然なミュージカルとの掛け合わせが上手くいく、などという単純なものではない。この二つの「不自然」は異質のものだ。マンガの中に歌やダンスが出てこないことには変わりない。いや、歌やダンスを問題にする前に、生身の肉体そのものが、マンガの世界を再現するにはふさわしくない代物ではないか。ならば、「テニミュ」と『テニスの王子様』の接合点は、そのような「自然」「不自然」の中には見出せない。
 マンガとミュージカルの間の深き溝に渡された橋、その正体を考える道すがら、自然に頭に浮かぶのは宝塚のことである。宝塚によって一九七四年に上演された『ベルサイユのばら』こそ、「マンガの舞台化」の元祖であることは言うまでもない。
 今も度々再演される人気演目『ベルサイユのばら』であるが、初公演の前には、ファンからの猛烈な反発にあったという。「実写によって、ファンのイメージを壊すな」というわけだ。しかし公演は大成功、少女達は三次元のオスカルやアンドレに熱狂し、一躍「ベルばら」ブームを巻き起こす。原作と手を握り合いながら、独自の人気と発展を保ち続けた「ベルばら」に、私は「テニミュ」人気の原点を見る。マンガと舞台の関係は、私達が思っているよりも深いのではないかと想像する。
 いや、もう少し率直に書こう。私は、日本におけるマンガの、その故郷のひとつは舞台、それも宝塚だと思っている。
 マンガの起源を厳密に探ることは非常に難しい行為であるが、現代マンガの基礎を開拓した人物として、「マンガの神様」手塚治虫の名前を上げるのは妥当なことだろう。手塚治虫の生まれ故郷は兵庫県宝塚市。手塚が、幼い頃から宝塚に親しんでいたことは有名だ。
 彼のマンガは、宝塚の多大な影響下で生まれている。わかりやすいところで言えば、男装の王女が主人公のマンガ『リボンの騎士』は宝塚なくしては描かれなかっただろう。何より、芝居がかった動作、表情、バタくさいキャラクター造形。そこにも、映画や小説、先行するマンガ作品に加え、宝塚の影響が見える。彼の描く大仰な仕草はいかにも演劇的だ。
 当時の日本において、宝塚は「異国情緒」を持つ数少ない娯楽の一つだった。華やかなブロードウェイ式レビューやワルツが繰り広げられる様は、海外に行くことなどない庶民にとって、遥か異国の香りを運ぶ夢のような光景だったに違いない。
 タカラジェンヌは、黒い髪と黒い瞳で、異国のダンスを踊り、歌を歌った。決して高いとは言えない頭身でスーツやドレスを纏い、彫りを深く見せるべく濃いメイクをする。しかし、どんなに身にまとうものを変えたところで、我々は外国人にはなれないし、女が男になれるわけでもない。その行為によってこの世に生まれ落ちるのは、青い瞳に八頭身の外国人ではなく、日本ではないどこかに住む異形の麗人なのである。
 彼女達によって展開される「異国」もまた、アメリカやフランスの完璧な模倣では有り得ない。観客がそれを見ながら得ているのは、本物の外国の光景ではなく、「ここではないどこか」への夢想だ。歪められた異国と、そこから広がる想像力が作り出した世界は、やがて宝塚にしかない世界となって磨き上げられていく。どんな名前の国であっても、町であっても、舞台の上のそこは、宝塚という膜を通したパラレルワールドだ。
 手塚マンガは、戦後日本で描かれながら決して「日本」マンガではなかった。初期の名作の中には、違う星の国も含め、「異国」が多数描かれている。正しくない外国、「異国情緒」を元に、想像力の羽ばたきで描かれた「不自然な」世界。そこで活躍するのは当然、アメリカ人ともヨーロッパ人ともつかない、しかし日本人でもないキャラクター達(例えばロック・ホーム)である。そのあり方は、宝塚の世界によく似ている。そして、手塚が紙の上に構築したその異界、その異人こそ、現代マンガのファンタジー性の源ではなかったか?
 マンガの故郷が、舞台の上の美しき異国なら――女が男を演じ、日本人が異国を演出する歌劇から得た想像力が現代マンガの礎となのだとしたら――マンガと舞台の間にあるのは、次元を分かつ険しい谷などではない。少なくとも、「ここにはないどこか」を舞台とし「誰でもない誰か」を登場人物とする、そんな舞台に、マンガは限りなく近い存在のはずだ。

 では肉体は、歌は、踊りはどうなのか? 異物ではないのか?
 繰り返しになるが、「テニミュ」の初演は二〇〇三年のことである。夏・冬各シーズンの本公演(東京・大阪・地方)、そして年に一回のコンサートイベント『Dream live』のローテーションで構成されており、二〇〇八年には、香港、韓国での海外公演まで果たした。原作には女性キャラクターも登場するが、「テニミュ」に登場するのは男性キャラクターのみで、オーディションで選ばれた十代~二十代の若手俳優が演じる。経歴はそれぞれ異なり、小劇場演劇出身者、元モデル、歌手など様々だ。定期的に代替わりし、その代ごとに「初代」「二代目」「三代目」などと呼ばれる。
 キャスト達が演じるのは、青学テニス部員をはじめとした中学生達だ。演じるキャスト達のほとんどは、中学生の年齢ではない。中には二十代後半のキャストもいる。だがそれは問題ではないのである。彼らが演じるのはリアルな中学生ではない。マンガの中のキャラクター、「架空の少年」だ。宝塚の男役、歌舞伎の女形と同じ、三島由紀夫が言うところの「夢と現実の不倫の交わりの子」なのである。
 そんな「イケメン」揃いの彼らがずらっと舞台に並ぶ様は一見ジャニーズ事務所の如きであるが、実はその公演システムや演出は、むしろ宝塚によく似ている(もちろん、ジャニーズ自体が宝塚の影響下にあるのだが)。
 初めてDVDで「テニミュ」を見た時、その群舞や歌の演出を見て最初に感じたのがそのことだった。その時見たタイトルは二〇〇四年の「side 不動峰~special match~」で、交通事故で降板していた主人公役柳浩太郎の復帰公演であり、同時に、彼を含む初代メンバー達による最後の公演でもある。私は特撮ショー的な、アクション中心の演出を想像していたのだが、画面の中に現れたのは、モダンバレエ的なフォーメーションの作りこまれた群舞だった。もちろんそれはテニスの動作の延長、もしくは代理であるので、それほど複雑なダンスをするわけではない。彼らの群舞や歌は、良く言えばエネルギッシュ、悪く言えば荒っぽい。にも関わらず、私はそこに、優雅な印象を抱いた。音楽の波に乗り歌と共に客席に覇気を飛ばすその中に、何か丸いものを保とうとするような、しなやかな力を見たのである。
 私は宝塚や劇団四季の舞台をよく見るので、最初はどうも比べてしまい、「ヘタクソだなあ」などと思っていたのだが(主人公役の柳が事故後であることを知らなかったせいでもある)、途中でDVDを止めてしまわなかったのは、そのしなやかさに惹かれたからだったかもしれない。また単純に、そのフォーメーションに見覚えを感じたこともあって、宝塚みたいだと反射的に思ったのであるが、後に、「テニミュ」の振付・演出が上島雪夫によるものだと知って納得した。上島雪夫は劇団四季や宝塚でも振付を手がけており、私は彼の手がけた宝塚作品をビデオで何度も見ていたのである。
 宝塚的だと思う演出の一つに、試合のほとんどを、歌とダンスで表現していることがあげられる。戦争や喧嘩などを、演技の代わりに群舞と歌で表現するというのは、ミュージカルの一般的手法だ。宝塚は特にそれを多用する。清く正しく美しくの宝塚で、直接的な暴力の描写は好まれないからだ。それに、女性のみで男同士の乱闘の迫力を出すことはやはり難しい。それをカバーするのが歌であり、ダンスだ。
 例えば『ベルサイユのばら』におけるバスティーユ陥落の場面。ここでは、オスカル率いる衛兵隊が、実際に人をなぎ倒していく光景はほとんど描かれない。衛兵隊達は、客席に向かってずらりと並び、客席を睨み剣を振りかざし、激しい音楽と照明に合わせてひたすら踊り続ける。敵と舞台の上手と下手に分かれ、実際に斬りあいの演舞をするよりも、こちらの方がずっと観客に迫力と臨場感を与える。舞台上の光景は実際の「自然」な図とは異なるが、その迫力や臨場感は格段にアップする。舞台が選ぶのは、所詮完全には再現できない自然な構図などではなく、観客に与えるものの大きさだ。
 「テニミュ」でも、似た様な演出が多々見られる。まともなテニスの試合など一切描かれない。冒頭に記したが、キャストはラケットで、ボールを打つ振りをするだけだ。舞台上でボールが実際に打たれることはない。
 「正しい」テニスをする代わりに、キャスト達は、テニスラケットを持って踊る。時にそれをラケットとして振り、時に刀に見立てて空を薙ぐ。彼らのラケットさばきは、プロのテニス選手のそれではない。勿論、「全国レベルの中学テニス部員」のものでもない。だが、そこは舞台の上なのだ。役者の覇気、パワフルなダンスや歌、そして華やぐ照明と音響こそが、真実の力として観客の心を打つ。そのラケットが、現実のボールを打っていなくとも。いや、現実の試合でないからこそ、私達の目には、尋常ならざる速さの球を想像する余地と、それを目撃する権限が与えられているのである。
 歌やダンスの力について、解析することは私には出来ない。歌やダンスは日常のあらゆる動作と異なる、と思うばかりだ。どこまでが日常の動きなのか、その定義も私にはわからないが、こんな例えで想像することはできる。私がフライパンで目玉焼きを焼く動作は、ダンスからは程遠い。しかし、一流の料理人が黄金色のチャーハンを作るため中華鍋を振るう、その鮮やかな腕つき目つきには、美しいダンスに似た見ごたえがある。通行人のおしゃべりは耳を通り抜けていくばかりだが、ギターの音色と共に歌声が聞こえてくると、ふとそちらの方に目を向け、ギターを抱えて道端に座り込む少年の姿を確認せずにはいられない。人が人の目をひきつける、その理由のほぼ全てがそこにある。思うに歌やダンスは、決められた時間と空間の中で人が最大限に魅力的であろうとする、その濃密な意思の余波だ。生きていることのアピールだ。だから私は、生を肯定するのと同じ無意識さで、ミュージカルにおける歌やダンスを肯定してしまうのである。
 前述した通り、原作の『テニスの王子様』で描かれるテニスは、端的に言って非現実的だ。一試合で血だるまになるような対戦が、実際にあったら大変なことである。
 原作のその非現実的な試合の激しさ、迫力は、当然ながら許斐剛による描線で表現されている。コマ割りや集中線、文字で描かれる効果音、トーンの作り出す陰影などが作り出すダイナミズム。それはもともとは、人や自然が作り出す力を、どうにかして紙の中で再現しようという、そしてそれを超えようという試行錯誤の中で練られてきた表現だ。
 「マンガの舞台化」とは、紙の中で育った「過剰」な表現を現実に再輸入する試みでもある。その過剰さを削ったら、その表現はきっと死んでしまう。紙にかかれたものをそっくりそのまま、舞台に写し取ることはできないから、だからこそ歌やダンスが必要なのだ。そこに満ち溢れる生命力が必要なのだ。
 ベルサイユのばら』の演出を手がけたのは人気俳優長谷川一夫だったが、彼は「型」の美を演出に取り入れ、ケレン味を最大限に押し出した。型もまた、日常を離れ、ただ印象深く美しく、合理的であることだけを追求した動きである。その、我々にとって親しみのない動作が、役者の生身の体を抽象の世界に押しこみとどめるのだ。
 では「テニミュ」と宝塚は同じようなものなのか。「テニミュ」人気は、かつてあった「ベルばら」ブームの模倣であるかと言えば、決してそうではない。当然二つは違う作品であり、異なる要素を多々持っている。
 「少年マンガ」の舞台化だからこそ、「テニミュ」だからこそこらされた工夫として、照明・音響効果の巧みさについて記しておきたい。
 舞台において、光と音が作り出す「嘘」は必要不可欠だ。「テニミュ」のDVDを過去のものから順繰りに見ていくと、照明・音響の技術がぐんぐん上がっていっていることに気づかされる。たとえば、試合で「ボールが打たれた」ことを示す際。初期の演出では、ボールの打たれた音がして、ムービングライトがコート上を走り抜けるだけだ。もちろん、それだけでも球が打たれたことは分かるのだが、それが今公演ではどうか。
 海堂薫というキャラクターがいる。彼の得意技「スネイクショット」は、超カーブのかかった球だ。まず試合に突入すると、照明が落ち、舞台の床に光のさざなみ模様がうごめき始める。その細かい震えが、試合中の時間の流れの緊迫感を否応なしに強調する。海堂のキャラクターに合わせた「戦闘BGM」が流れだす。彼が腕を振り、技名を叫ぶ。一瞬止まるBGM。海堂を照らすスポットライトから分かれるようにして、二つの光が飛び出す。テニスボールの小さな円ではない。直径一メートルはありそうな正方形だ。ひとつは球の軌道を走り相手のコートに飛び込み、もうひとつは、力の反動を示すが如くその真逆へ飛んでいく。ガットでボールを弾く音ではなく、鉄を擦るような重量感のある効果音が響く中、舞台上方、両端に取り付けられた鋭い輝きの照明が、目にも留まらぬ速さで交差し私の目をくらませる。真四角の光の中には球の重みが、クロスライトの閃きの中には現実の時間を超えた速さがねじ込まれている。
 わずか2秒程の間に、これだけのことが行われる。他にも例をあげたいがキリがない。少年マンガである『テニスの王子様』を舞台化するにあたり、演出上最も重視されたのは試合のスピード感や迫力の再現であろう。初演以来、そういった効果の技術は「再現」という枠を超え、「テニミュ」独自の力を持つ域にまで達している。
 照明や音響だけではなく映像も積極的に取り入れられており、舞台奥のスクリーンに、球の軌道が描かれたり回想シーンが映されるなどの演出も多い。「The Treasure Match 四天宝寺 faet. 氷帝」のリョーマ対金太郎戦では、ついにワイヤーアクションまで登場した。
 エネルギッシュな劇中歌も、私がこれまでに親しんできたミュージカルとはまったく異なる雰囲気を持つ。佐橋俊彦はこれまでに『激走戦隊カーレンジャー』などの特撮作品も手がけてきた作曲家だ。そんな彼の作る「テニミュ」の楽曲はどれも明るく、楽しい。三ツ矢雄二の書く歌詞は、シンプルな勝利への意欲に満ちている。それは、ロジャース&ハマースタインやロイド・ウェバーが作り出すミュージカル音楽の世界とは違うかもしれない。しかしそこに笑顔があり、手拍子があり、涙があることの価値は、陳腐な言い方だが何にも代えられないのである。

 涙といえば、「テニミュ」は、宝塚やモーニング娘。などと同じように定期的にメインキャストが代替わりし、その代による最後の公演は「卒業公演」と呼ばれる。この「卒業システム」も、人気の一因であろう。人は、いつか失われるものを愛するようにできている。ファンは、いずれ去るとわかっているからこそ息をつめてキャストを見守り、まるで親のような気持ちで「卒業」を見送る。そして新たにやってきたキャストと視線を移す。「いつか彼らは居なくなる」という事実こそが、ファンに情を移させる。限られた時間を大切にしようという気持ち、「今」を見逃してなるものかという焦りをかきたてるのだ。
 舞台は、同じ絵が永遠に印刷され続けるマンガとは違う。今日しか見られない演技、今日にしかない感動。それを求めて、ファンは劇場に詰めかける。
 私は、今回の「The Final Match 立海 Second feat. The Rivals」で、そうしたファンの姿をたっぷりと目撃した。最終戦ということを私はあまり意識していなかったのだが、芝居終盤、客席のあちこちから聞こえるすすり泣きに、「そうかこれが最後なのか」と不思議な気持ちになった。
 私は二階席のかなり後方で見ていたので、周りに合わせて手拍子を打ちながら、そういった客席の高揚ごと劇場を眺めていた。これまで私はDVDで「テニミュ」を見ていたから、見ている光景としてはそれとあまり変わらない気がした。違うのは、今の私の目の前にはディスプレイなどなく、この客席と舞台は地続きだということだけだ。そして、そのことがなんと大きな力で私の心を打ったことか。舞台では、大勢のキャスト達が笑顔と汗を振りまきながら歌い踊っている。現実ではありえないような色とりどりのカツラをつけ、少しでも漫画のビジュアルに近づくようにと濃い化粧をし、原作では中学生である役を、十代後半~二十代の男達が全力で演じている。一人ひとりを取り上げてみれば、珍妙なコスプレにしか見えないだろう。舞台上には余計な装置は何もなく、床に張り巡らされたコートの模様とキャスト達が手に持つラケットだけが、かろうじて「テニス」という題材と舞台をつなぎとめている。にもかかわらずそこはコートでしかありえず、キャスト達は紛れもないキャラクターなのである。
 強烈な照明が肉体の躍動を照らし出し、明るい音楽が彼らの動作に秩序を与え彩色して行く。彼らの歌も動きも表情も何一つ、そのまま持って帰ることは許されない。永遠に未完の一枚絵だけが、心の中に色鮮やかに残される。しかもそれは、複製不可能な絶対無二の抽象画なのである。
 ダンスも歌も台詞も、台本や楽譜によって「不滅の生」を与えられている。でも私はそれを媒介に、その向こうでめまぐるしく己を更新し続ける、いつか滅ぶであろう役者の姿を見ているのだ。何度でも再現可能な振り付けや旋律が、再現不可能な肉体の一瞬の煌きを引き立てる。それが二度と見られない光景であることを強調する。二度と見られない。私達が夢中で手拍子を打つのは、そのことの重み痛みを振り払うためだ。
 アンコール曲に、観客は歓声を上げる。私は、すすり泣きにではなく、その嬉しそうな歓声に泣かされた。観客の笑顔と、キャストの笑顔が向かい合っている、その光景にこそ涙が止まらなかった。
 今公演で、リョーマは最強の敵「神の子」幸村に挑戦した。戦いの中でリョーマが到達するのは、「天衣無縫」の境地。それは、「テニスは楽しい。楽しいから俺はテニスをやっているのだ」という極めてシンプルな、原点の感覚である。幸村を倒したリョーマは、アメリカに渡る。一人きり、空の舞台を振り返ると、そこに歴代の対戦相手と青学の仲間達が現れ、リョーマにラケットをつきつける。
「勝負だ!」
 リョーマが客席に向き直り、お得意の台詞を高らかに言い放つ。
「皆、まだまだだね!」
 そして流れ出す、「This is the prince of tennis」のイントロ。
 二〇〇三年の初演、その幕開きに歌われたオープニング曲だ。「テニミュ」の始まりを告げた歌を、「テニミュ」に幕を下ろす五代目のキャスト達が歌う。初演と変わらぬ歌詞。同じメロディ。しかしそれは初演と同じ歌ではない。今日この時一度しか聞けない、特別な歌だ。同じ歌詞が何百回歌われていようとも。

   いつまでも挑み続けていこう
   どこまでも 戦い続けていこう
   それが俺の生きてる証しなのさ
   皆、楽しんでる?
 
 初演と同じタイミングで、リョーマが客席に問いかける。
 それに対する答えこそが「テニミュ」の持つ力、原作『テニスの王子様』と、『ミュージカル・テニスの王子様』の間に渡された、輝ける橋の正体だ。
 劇場の中で、私はキャスト達と観客と、「天衣無縫」を分かち合った。
 見えないボールを見るとはそういうことだ。


 
参考資料
 第二次惑星開発委員会ゼロ年代のすべて』(二〇〇九年)
 三島由紀夫『花ざかりの森・憂国』(新潮社 一九六八年)
 夏目房之助手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』(小学館 一九九八年)
 『an・an』1696号(集英社 二〇一〇年)
 NHK総合テレビ「プロジェクトX~挑戦者たち~」(二〇〇五年十二月六日放映)
 株式会社マーベラスエンタテインメント公式WEBサイト 
 URL:http://www.mmv.co.jp/(最終閲覧日:2010/03/01)
 漫画大目録URL:http://www.daimokuroku.com/?index=sikumi&date=20091202
 (最終閲覧日:2010/03/01)
 ミュージカル『テニスの王子様』公演DVD
 Dream Live 1~5st (株式会社マーベラスエンターテイメント 二〇〇三~二〇〇六年)