手持ちの札をすべて出し切る
そんなに毎年律儀にその年の目標を立てているわけではないし、それなりの手間をかけてリストを考えても忘れてしまうことの方が多い。
でも今年はまずひとつ、書くことに関しての明確な目標を立てた。
「(現時点の)手持ちの札をすべて出し切ること」。
「書きたいこと」はいつもいろいろと頭の中に渦巻いている。十年、二十年といった長さで悶々とこねくり回しているものもある。
でも、それがありすぎて頭が重くなっている気がするのだ。ここらで一旦、どんなにしょぼい形でもいいから全部吐き出してしまいたい。ちょっとしたブログ記事でもいいから手当たり次第外に出す。「もう書くネタなんてないよ」と思うくらいまで絞り切って、その後のことは空っぽになってから考えたい。
そもそも、書きたいという悶々が無駄にあるだけで、今はひとつひとつのテーマについて考えられていない状態なのだ。私は書きながらでないとものを考えられない。考え終わってからそれを綺麗な形でアウトプットする、ということは極めて苦手だ。考えるには書くしかない。書かないでいると、考えきっていない思念が溜まって膿になってしまう。どんどん出して、血流も良くして、身軽にならないと。
去年末に気まぐれに受けた占いでも、占い師の女性にこう言われた。
「みきさんは、『あたためないこと』が大事です。すぐに出しちゃってください」
じっくりことことあたためない。軽薄なくらいすぐに出す。いつでもすっからかん上等という気持ちで過ごす。
そこを目指すのが、2024年にやりたいことのひとつだ。
あとは「毎日ひとつでもいいから何か文章をアップする(このブログとか、Twitterとか、しずかなインターネットとか、noteとか)」とか、「好きな文章を写経したノートを作る」とか、細かい目標もいろいろ考えている。が、詰め込むと私の場合「生活=苦行」という状態に突入するので(今は赤ん坊の世話もあるし……)、楽しくできる範囲を考えて決めていこうと思う。
今週のお題「2024年にやりたいこと」
私は私の執筆コーチになることにした
妊娠7ヶ月の頃に書いた、「37歳の誕生日を迎えた自分宛」の手紙を読んだ。妊娠7ヶ月の私も、体調の変動で集中力が下がって書けないことに苦しんでおり、そっちはどうかと案じていた。
37歳の私も書けていない。少なくとも、満足のいくようには。
ねばりを失い、長文を書けない状態が続いているせいで、「このような有様で子どもを食わせていけるのだろうか……」という不安も押し寄せる。
少し前に英語圏のライターのブログを大量に漁っていた頃、「”母親”をしている女性のライターズブロックについて」というテーマの文章をしばしば目にした。
ものを書く女性の多くが、子どもを産むとかなりの困難に直面する。もちろん文章だけでなく、絵画だろうと舞踏だろうと、およそクリエイティビティの必要な仕事の大半は(ということはつまりほとんどの仕事ということになるが)、進行と完了がものすごく難しくなってしまう。その現実とどう対峙するか、どう乗り越えるかという話を、それを体験した女性たちが熱心に語っていた。肌感だが、日本よりもこのテーマの存在感は大きいように見えた。
わかりきっていることだが、そこで語られていた解決策に、目の覚めるような斬新なものはなかった。スマホを活用しよう、自分を信じよう、時間を信頼しよう、人を頼ろう……。
「完璧な両立、克服は不可能だ」と誰もかれもが書いていた。赤ん坊相手のプロセスには、いかなる意味でも魔法はないのだ。
そのことで、私がメタメタに苦しんでいるかといったら別にそこまででもない。少なくとも今のところは。子どもは可愛いし、この状態が永遠に続くわけではないし、と思えているからである。
ただ、日々細々と自分に対して失望していると、「あーあ、誰かなんとかしてくれないかな」みたいなことは流石の図太い私でも考えてしまう。
で、散々それを繰り返してきた今日、ふと思ったのだ。
ここまで自分にひたすら厳しくしてきたが、厳しくしても大した成果はあげられなかった。今の私に必要なのは厳しい管理人ではなくて、こちら(書けないでヒイヒイしているところの私)のテンションの上下に影響を受けない、どっしりした応援者だ。
これも英語圏のライターの書き物を読み続けていて知ったことだが、あちらには「ブックコーチング」というジャンルのコーチングがある。本を書く・書きたい人を励まし、作品の完成まで伴走する。コーチのキャリアによってはある程度の文章指導も行うようだ。まだそこまで細かく調べていないが、現在の余裕のない出版界では編集者やエージェントがじっくりと作家を育てたり励ましたりしている暇がないので(日本も同じ)、そこのメンター的役割をブックコーチの方で担いましょう、というコンセプトで確立していったニッチジャンルらしい。
日本でもライターを対象としたコーチやコンサルはいるといえばいると思うが、名称が確立しているものではないのでブックコーチの話はなかなか印象深く読んだ。こういう人に励ましてもらえるのはたしかに精神的によさそうである。
今の私に必要なのは、私自身が、私のブックコーチになることなのだろう。
ブックコーチ、執筆コーチ、ライティングコーチ? なんでもいいが、とにかく「書きたい私」に寄り添って、理解して、信じて、あたたかく励まし続けること。
もし私が、私のような状態の人間の執筆コーチをするなら何から始めるだろうか。
今日の午前中、自分からの手紙を読んでしばらくしたあとで、その問いを思い浮かべてみた。
少なくとも、叱ったり、咎めたり、けなしたりはしないだろう。まずはゆっくりと話を聞き、理解を示すところから始めるに違いない。
そこから始めよう。私は私の話に耳を傾ける。書くことに対しての今の考え、感情、不安、希望について、気が済むまで話してもらうのだ。
ビーチボード
21時。19時前に赤ん坊を寝かしつけて夕食をとり、夫にあとを任せて徒歩圏内にあるカフェにやって来た。
ホットのカフェインレスコーヒーを頼み、ノイズキャンセリングイヤホンを装着し、焦る気持ちを落ち着かせてポメラを開く。イヤホンから流すBGMはエルガーのチェロ協奏曲ホ短調85。ジャクリーヌ・デュ・プレの艶やかなチェロを聴きながら、少しでも手応えのある文章を書きたいと思いながらキーを叩く。でもなかなかそこまで至らない。書いても書いても気はそぞろになり、文章はむなしくか弱くやたらと積み重なっていく。無意識にスマホを触ろうとしては自分をいさめたり、その理性が間に合わなくて画面に浮かんだニュースやSNSの書き込みに一瞬で心を奪われたりといったことを繰り返す。本当はスマホは家に置いていきたいし、持ってくるなら電源を切ってしまいたいところだが、赤ん坊に何かあったときに夫からの連絡を受け取れないのは困るからそうもいかない。
またやってしまった、また文章から注意がそがれた、と思う度に自分を内側から蹴っ飛ばし、スマホを座席後部に放り出して、ポメラの画面に意識を振り戻す。21時半。800字ほど書いたがまったくのゴミだ。怒りにまかせて全力デリートする。真っ白になった画面を眺めていると、ふと家に置いてきた子どもが心配になる。
いつもなら子どもはこの時間に起きたりしない。23時頃にこちらから起こしてミルクを飲ませなければ、夜中の3時頃まで平気で寝続けるはずだ。でもまれに21時半や、22時半といった半端な時間帯に泣いて目を覚ますこともある。今日たまたまそれがあったらどうしよう、という心配が淡く脳裏を走り抜ける。いや大丈夫だ。AIモニターからの通知もない。たとえ泣いて起きたって、夫がミルクをあげればそれですむ。私がいなければただちに子どもが死ぬわけでもないのに過剰に気にする必要はないのだ。なのに不安になる。手の届くところに赤ん坊がいないことに恐怖する。
……また意識が飛んだ。戻れ、戻れ。戻る途中でスマホを触ろうとしないこと!
子どもを産んで五ヶ月、ものを書こうとするときの8割くらいはこういった不毛な苦闘をしている。少しでも気を抜くと四方八方に飛び散っていく注意をかき集め、泳げない小学生がビーチボードにしがみつくように、MacBookやポメラのキーボードにしがみついている。そしてしょっちゅう手の力が抜けては水の底に沈んでいる。
産後一ヶ月くらいの頃から、少しずつ文章を書くことを再開した。寝ている赤ん坊のそばで、いろんなツールや体勢でひたすら細切れに書いた。パソコンで、ポメラで、スマホで、iPadで、紙のノートで、メモ帳で。長いものを書こうとしたことも、短いものを書こうとしたことも、何も考えずに書いたことも、アウトラインを作ってから書いたこともある。妊娠中から、いろんな書き方を模索していた。ある程度はいろんな書き方ができるようになってきた感覚もあった。でも、産後はいずれもあまりうまくいっていない。そもそも書き上がるところまでいかないのだ。日記のような断片的な文章なら書ける。でもひとまとまりの、頭と尻がちゃんとある文章にはどうにもならない。
思考が上滑りし、気持ちが焦って胸元までせり上がってくる。それを繰り返していると、無力感でほとほと自分が嫌になってしまう。今の私は、厨二病全開だった十三歳のときより文章が下手な気がする。
なのに、だ。そんな状態でも、次の瞬間には手を伸ばしてキーボードにしがみついている。別に誰もそれを望んでいるわけではない。私が書かないと困る人間なんてこの世に誰一人いない(むしろそこに執着している方が家族は困るかもしれない)。溺れている私に救命浮き輪を投げてくれる人はいない。自分で勝手に水に入り、浮き沈みを繰り返し、自分で持ってきたビーチボードをつかんでじたばたしているだけだ。まことにお恥ずかしいことである。
でも結局のところ、それが私のしたいことなのだ。全然うまくいかなくても、誰も褒めてくれなくても、ゴミのようなものしかできなくても、私は性懲りもなくそこに手を出し続けてしまう。
今はだから、毎日ほんの少しでもいいから「書けた」と思う文章を残したい。一行でも二行でもいいから書いて、それをつなぎ合わせて、「ここまではこれたな」と思いたい。
22時を前に、諦めてポメラを閉じて帰路につく。帰ってスウェットに着替え、歯を磨き、フロスをし、食いしばり防止のためのマウスピースをはめる。お湯を沸かして子どものミルクを作り、残ったお湯を小型の水筒に入れる。ミルクと水筒を持って寝室に入り、子どもにミルクと乳をやって一緒に寝よう。
そうしてまた、書こうとする新しい一日を待つ。
繰り返すこと
腹の苦しさと暑さで4時間ほどしか眠れないまま起きた。
午前中、2時間かけて家のエアコン3台と自分のパソコンキーボードの掃除をする。7月からは重い作業を一切したくないので、根気のいる掃除は6月中にすべて終わらせる予定だ。明日はベランダ窓と網戸の掃除をしたい。
掃除の間、西野亮廣氏のボイシーの配信を聴いた。中田敦彦、西野亮廣などのインフルエンサーの発信は、たまに短期間でまとめて摂取することにしている。
私は聴覚過敏持ちで人の声や喋り方に対する好き嫌いが異常に激しいのだが、西野氏の声の質や高さ、話すスピードなどはわりと好きな方で、一気に聴いても嫌にならないのでこういう単純作業のときにありがたい。話している内容については当然、普通に参考になるなと感じるところもいやいや……となるところも両方あるけれど。
まとめて配信を聴く中で、「自分はクラウドファンディングやオンラインサロンをやっているという理由で日本中から叩かれた、批判された」という話の頻出ぶりが改めて気になった。まあ多くの人は一人の発信を大量に見たりしないし内容の記憶もしないので、同じ話を百万回伝えることは一定有効なのだろう(彼自身そう発言している)。ただ、この話を5年後も10年後もしていたらつらいな、とふと思った。最近、アラフィフくらいの著名人や学者の言動の奥に、2〜30代の頃に根付いたルサンチマンのリフレインを見ることが多くて、自分はなるべくそうはなりたくないなあと考えていたのだ。自分の中にある恨みつらみをなるべくクリアにしていくこと、クリアできているからといって何十回も口にしたりはしないこと、などをぼんやり対策として思い浮かべる。
掃除で疲れ果てたのち、横になってオルゴールのBGMを聴いたらものの数秒で意識が遠のいてそのまま90分ほど昼寝。起きてから買い物がてらファミレスに行って食事をしたがどうにも気持ちが悪く、帰宅後にさらに2時間近く寝てしまった。起きて元気にしていられる時間が少ないのが悔しいが仕方がない。
ファミレスでは一応、新しい小説の構想をねった。今度こそ規定以内の枚数で書きたい。あらすじは見えているがもうあとひとアイテム必要だ。もうちょい考える。
映画「怪物」(ネタバレあり)
朝から行政関係の手続きをたくさんして疲れたので、午後は映画を観にいくことに。「アフターサン」か「怪物」かで迷ったが、場所と時間の都合で後者にした。
「怪物」は、社会的意義とか映画としての挑戦とかそういったことを取り除いて素直に感じたままにいえば、私にはあまり刺さらない映画だった。そもそも子どもがかわいそうな目にあう映画が苦手なのだ。もちろんそこで快を与えることが目的の作品のわけがないのだが。
いいなと思ったところ……というか「ここの手触りをもっと突き詰めたい」と感じたのは、メインの少年二人の「自分の感じていることや向かう先をまだうまく言葉に変換できず、だからこそ言葉を用いて自分のおかれている状況を政治的に改善していく力もない」ありかたの表現を観ていたときである。ここは、役者二人の力も相まってとても上手いと感じるところがしばしばあった。逆に急に「脚本」が顔を出すところもあって、まさにキメのシーンだが「好きな人がいるけど言えない、幸せになれないから」という台詞については、私はどうにも違和感をおぼえた。これはやはりこのあとの台詞のための台詞、という感じがする。ともあれ役者は子役だけでなく大人も含め、皆力があって素晴らしかったと思う。
ラストシーンは端的に綺麗だった。ありのままの彼らを、つまり「生まれ変わらなくてよかった」彼らを受け止めてくれる世界は、たしかに今の私にはあのくらい眩しく遠く感じられる。そこの距離の大きさに悲しくなる。まだまだ私たちの世界は大嵐の真っ最中だ。そして小賢しい大人が家の中で嵐をやり過ごそうとしているその間に、もっとも傷ついた人たちから率先して嵐の街に出て、愛する人と手を取り合うために山道に入り、土砂崩れにあって怪我をしたり命を落としたりするのだ。そうならないためには、せめて手と声が届く範囲にいる人にはフェアに振る舞わなければいけない。そこにしか救いはない。
犠牲者が出ないと世界は変わらず、現実世界の犠牲者はどれだけ多くてもすごく見えづらいから、大きなスクリーンを使える映画の中で少年たちが美しく握り潰される。まだまだわかりやすい生贄を必要とするこの社会に忸怩たる気持ちだ。
ところでTwitterで感想を検索したら、「良いショタBLでメリバ(メリーバッドエンド)だった」という内容のつぶやきが大量に出てきて心から不快になった。思うのは自由だし、コンテンツの楽しみ方も自由だ。でも書き残す行為には別の意味が生じる。「ロリ」を同じようなカジュアルさで使うことは減ってきた気がするが、「ショタ」になると急にハードルが下がるのは、これは女性蔑視とセットの根深い問題であろう。かつてミナトやヨリだった人、あるいは今まさにそこを生きている最中の少年少女がそこらじゅうにいる、つまりインターネット上にもいるのだが、それがわかっていてもその言い回しを躊躇いなくできるのかどうか。
男子のいじめだけでなく、教室でBL漫画を読んでいたあの女の子が「いや〜良いショタBLだわ〜」と悪意なく喜ぶシーンが必要だったのかもしれない。