山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

謎をまさぐってばかり

ついに「シン・ゴジラ」を見てきた。しかし、まずは庵野監督について書きたいと思う。個人的な思い入れが大きいからだ。

私は、庵野監督にとても複雑な愛憎がある。彼なくば、私は社会批評のようなものに興味を持たなかったし、もしかしたら物書きにもならなかったかもしれないのだ。

 

1995年3月。オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。同年10月から、テレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の放映開始。そして翌96年、うちの父親が死んだ。この3つは、私の中で密接につながっている。

世間がカルト宗教批評で盛り上がっている中、私の家には日々、ひっそりと宗教勧誘が訪れていた。母が日中は仕事で家にいないので、対応するのは私ばかりになる。エホバ、創価天理教などいろんな宗教の人と話した。

私はカトリックの幼稚園に通っていたので、ベースにあったのは完全な一神教的世界観だった。その価値観が一気に壊れたのがこの時期である。いろんな宗教があること、それぞれに信者がいること、宗教のせいで人を殺す人たちまでいるということを、私はその時期にいっぺんに知って当惑した。当然だけど、父親の死をどう解釈すればいいかについても一瞬の混乱が生じた。

私はそのうち、オウムについて書かれたものを読むようになった。宮台真司小林よしのりなどの若手批評家が、オウム事件(や、その少し前にあった宮崎勤事件など)の影響で一気にメディア露出を増やし、盛んに本を出していた時期である。

女子高生の援助交際について、オウム事件について、薬害エイズ事件について、いろんな人の批評を読む中で、私はやがてエヴァンゲリオンに興味を持つようになった。オタク的想像力と、オウム真理教への信者の傾倒には、大きな共通点があると多くの人たちが指摘していた。

中学に入学した後、私はエヴァのTV版と劇場版を立て続けに見た。まったく面白いと思えなかった。私は子供の頃から「十代前半の自意識」みたいなものが基本的に苦手だったし、「萌え」的なものにも興味がない。エヴァのような作品に惹かれる感性の土台が、どうも私にはないらしかったのだ。でもその代わり、「エヴァについて語っている人たち」の熱さには単純に驚いたし、強く興味を惹かれた。同人誌の世界の広大さを知ったのもこの時期だ。

その少し後に、庵野監督が作った実写映画の一つである「式日」も見た。これがまあ、本当に、どうしようもない映画なのである。それまで私にとって最高の駄作は「リターナー」だったのだが、それを上回るつまらなさだった。でも、どこか気になる作品でもあった。ここで描かれていたのは、「妄想の世界を生きる者(アニメ・漫画的なキャラクター)」と「その鑑賞者」の世界である。鑑賞者は、キャラクターに対して何もできない。でもキャラクターは鑑賞者を肯定してくれる。ドリームの世界そのものだった。

 

私にとって、庵野監督が形にする「オタク的想像力」(それは世間の批評や評判を見る限り、かなり切実に時代を反映している)は、近いようでものすごく遠いものだった。言いたいことはなんとなくわかるが、私がそれを自分ごととして感じることは永遠になさそうな程度には遠い。でも、世間ではこれが熱狂的な支持を受けている。そしてそこで共有されている想像力は、確実に「暴力」と結びついているという予感があった。

私は「わからない」ものについて考え続けるのが好きである。「現代のオタク的感性」は、私にとって大きな謎になった。それがアイデンティティの模索と融合し、宗教テロや、その他凶悪犯罪に結びついていくことの核をつかみたかった。

宮崎駿庵野監督について評した文章を読み、それまでやはりたいして興味のなかったジブリ映画もどっぷり見るようになった。東浩紀の新書も読んだ。大学ではアニメ文化を研究するゼミに入り、批評系の本をやたらと読んだ。小林秀雄のやり方でオタク系サブカルチャーを語れないかと試行錯誤してみたり、時間哲学の言葉でアニメを分析しようとしてみたり、小賢しいことをいろいろはじめた。漫画もアニメもこの時期に大量に摂取した。

 

だから、やっぱり庵野監督は私にとって「謎の入り口」のひとつだったのである。今もその謎の中をまさぐってばかりいる私だ。

 

さて、私はほとんど理屈からオタクの世界に入った人間だが、その前から好きだったものはいくつもある。そのうちのひとつが特撮だ。ゴジラも、ウルトラマンも、戦隊も、メタルヒーローも大好きだった(仮面ライダーは大人になってからしか見ていない)。

私が特撮にはまったのは、父が死んだ後、弟をあやすために特撮のビデオを一緒に見ていたからである。特撮は、死と宗教について考えていたその時期に、私の心を慰めていた最大のコンテンツだった。

そして庵野監督は、特撮の申し子のような人間だ。円谷作品がなければ、庵野監督の作風はありえない。

さまざまな災害やテロ事件を経た2016年に、ゴジラの最新作を、庵野監督が作る。その情報を知った時、見たいような見たくないような複雑な気持ちになった。庵野監督、そして特撮、この二つのワードは、私の人生のすごく大きな流れを象徴している。

 

まだまだわからないことばかりで、きっとそのわからなさは「シン・ゴジラ」を見ても解消されない。そして私はきっと、庵野監督の感性にまた「なんか、合わないよな」と思うにちがいない。でも私は見るのだ。「わからなさ」が好きだから。わからなさを味わうために、映画館に行ってしまうのだ。

そして私は「シン・ゴジラ」を観たのである。

現実対虚構っていうキャッチコピー、うまいんだかうまくないんだかわからない。こういうケムの巻き方も庵野節だよな、と思ってしまう私であった。