山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

シン・ゴジラ

感想を書くにあたり色々迷っている。どういう風にも書けるからである。「なかなか面白かったし、社会的意義もある作品だと思う」と書くこともできるし、「話にならないクソ映画だった。式日の再来だ」と書くこともできる。どっちを書いても私にとっては嘘ではない。

しかし、こんな御託を考えてしまうあたり、やっぱり「シン・ゴジラ」は、映画として私の胸には刺さらなかったのだろう。

シン・ゴジラ」は、「ゴジラ映画を、我々日本人がどう扱ってきたか」のまとめのような映画だと思った。

私たちはゴジラ核兵器の脅威のメタファーとして生み出し、大きく進化させた。しかし、ゴジラ単体の脅威というのには限界がある。2000年代に作られたゴジラシリーズは本当にしょぼかった。映画の出来が悪かったというのももちろん事実だが、その出来の悪さは、時代が要請したものでもある。もう「怪獣」ごときでは怖がれないし、神秘も、面白さすら感じられない時代なのだ。

「一番怖いのは人間ね」

作中で、石原さとみが言う。セリフとしてはかなり陳腐だが、多分この陳腐さには意図がある(正直、意味があるとは思えないんだけど)。「ゴジラより人間の方が怖い」というのは、もう誰もがわかっていることのはずだからだ。

“実際に”ゴジラのような怪獣が現れたら、自衛隊がちゃんと始末するだろう。「シン・ゴジラ」のゴジラはミサイル攻撃がまったく効かない上、東京中を焼き払えそうな熱線を吐くチート生物だが、たぶん「実際のゴジラ」はそこまで強くない。自重にあそこまで耐えられるとも思えない。おそらく「実際のゴジラ」は、「虚構のゴジラ」なんかより弱いし、世界をそこまで乱したりもしないと思うのだ。……と、こういう小理屈を瞬時に考えてしまう程度にはゴジラの歴史は長く、私達の世界の技術は進歩してしまった。

そして、「実際のゴジラ」より怖いものはいくらでもある。テロ、凶悪犯罪、原発などなど。「怪獣」は、もうそれらを乗り越えることができない。「シン・ゴジラ」は、その価値観をメタに見ながら作られている。だから最終幕は、「人間とゴジラ」ではなく、「日本人と核兵器」の戦いなのだ。

ゴジラなんていつでも倒せるし、もっと恐ろしい、もっと日本人の尊厳を失わせる兵器があるのだということを、庵野監督ははっきりと描いた。

ゴジラは原爆のメタファーにすぎず、実際の核兵器の前ではひとたまりもない。そして、戦争の脅威はわりと現実的なところに迫っている。もう、怪獣が日本を殲滅させる暇なんてないのである。

シン・ゴジラ」のゴジラは、私から見るとまったく怖くない。なんでかというと、やっぱりあれのコンセプトが、怪獣ではなく巨神兵だからだと思う。庵野監督は、大きいバケモノは全部巨神兵にしてしまう人なので仕方ない。

じゃあ巨神兵はなんで怖くないのかというと……これはちょっとむずかしい。デザインとか、動きとか、色んな要因が考えられる。単に、生き物としてのリアリティがないからというのもある。いや、一番の理由は、「風の谷のナウシカ」を貫くあの悲しい雰囲気だろうか。巨神兵が気の毒な存在であることを、もう脳みそがあらかじめインプットしてしまっているせいかもしれない。

ゴジラも哀愁を背負った生き物ではある。でもその哀愁は作品内で作られるものであって、作品の外にはない。巨神兵の哀愁は作品の外にあって、中にはない。私から見ると、だが。

 

色々考えていたら長くなってきてしまった。続きはまた。

 

今日は初めて、ポプラ社に打ち合わせに行った(バトンズの仕事とは関係ない)。名だたる児童書の数々を出版した版元だ。薫くみこの「十二歳」シリーズ、そして那須正幹の「ズッコケ三人組」は私のバイブルの一角である。小さい時読んでいた本の、その版元に足を踏み入れる日が来るとは。6歳のときの私に教えてあげたい。一緒に仕事がしたい、と思える優秀な編集者さんとも知りあえて楽しい面談に。

夜は、また別の知人編集者さんから連絡。良いライターはいないか、という問い合わせだった。条件を聞き、「ならこの人だ!」という人がすぐに思いついたので、ゴーヤチャンプルを食べながらツイッターでDMを送る。接点がありそうでなかった同世代のライターさんと、初めてちゃんとコンタクトを取ることができたので嬉しい。ライター(きちんと書けるライター)不足の世の中らしいので、良い記事を書く方とは今後もきちんと連携をとっていきたい。そしてもちろん自分も頑張りたい。今のところ、日々勉強である。