山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

アマルガム

午前中は物件めぐり。またもや豪雨で本当に嫌気がさす。梅雨時期はろくにふらなかったくせに、台風のシーズンを前に豪雨祭りとは。

物件は2つ見たのだが、一軒目は古すぎて動線が悪く、二軒目は目の前が線路でやっぱりそれも微妙であった。どちらも立地はよかっただけに残念。

そしてもうひとつ残念なこと。今回一緒に行った不動産屋さんは紹介で知り合った方なのだが、彼に対する信頼感が一気に落下してしまった。なぜかというと、彼が自分のクライアントの悪口を言ったからである。クライアントの悪口、しかも精神疾患をからかうような人のことは、私は一発で嫌いになってしまう。紹介してくれた人には悪いが、彼の仲介で賃貸契約を結ぶことはないであろう。客商売をしている人は、そういうところで客を逃すということを忘れないでほしい。

で、午後はずっと楽しみにしていたランチ。大尊敬するクリエイターのお兄さまT氏と、レストランで一年以上ぶりの再会をする。Tさんは、映画学を筆頭に、思想、芸術、文学、その他あらゆる分野に通じた、私から見るとまさに教養の塊のような人だ。なのに知識をひけらかすようなことを一欠片もしないのが尊敬できる所以である。SNSでつながっている以外は、普段雑談LINEを送り合うでもなく、年に1、2回会うくらいの関係。しかしその分たまの面会の濃度はすごい。あらゆるコンテンツについての批評話をしまくらなければいけないので大変だ(口の筋肉が)。

再会の挨拶もそこそこに、飲み物がやってくるなり私が「シン・ゴジラどう思います!?」と鼻息荒く聞いたので、「え、もう? もうそこいっちゃう?」と笑われた。庵野監督の役割について、リアリティについて、そして「ズートピア」の凄さについてなど夢中で話し合う。食事も美味しかったが、話が面白すぎて味をほとんど覚えていない。

その後も、場所を変えて延々コンテンツ談義。映画から小説から政治・恋愛まで、ありとあらゆる方面の話をした。重要な話があまりにもたくさんあったのだが、全部書いていると恐ろしい分量になるので小出しにしていくことにする。

「みきちゃんって、何についてもまずは自分で考えて咀嚼して、自分の言葉で語るタイプじゃない。みきちゃんみたいな人、意外といないんだよ。いろんなもののアマルガムだと思うんだよね」

途中でそう言われてじーんとした。普段、「私の武器はこれしかない気がする、でも本当にこれは武器なんだろうか? ここに私は、私が私であることの意味をちゃんと込められているんだろうか?」と自問することばかりだから、「それでいいんだよ」と言われたような気持ちになった。

ものを作っていくなら、「この人の目は絶対に本物だし、絶対にごまかせない。私が少しでも何かに甘えたら、この人はそれをあっさりとあるがままに見ぬいてくるだろう」と真剣に思える相手が身近にいるのは幸運なことである。

私にとって、そのうち一人は映画監督のT橋先生で、もう一人がTさんである。二人とも、出会えたことのありがたさを思う度に背筋が伸びるような相手だ。そういう人と知り合うことができ、しかも多少なりとも期待をかけてもらえているというのは僥倖でしかない。二人がいる限り、私はある種の手抜きというものを絶対にしないでいられる自信がある。

そして、「君の才能を信じている」という言葉が与えてくれるものの大きさを思うと、私も、素晴らしいと思う人のことは言葉を惜しまず褒めまくっていかなければと思うのだ。アドラー先生には怒られそうだが。

 

アマルガム」、という言葉が気になって、帰ってから色々考えたり検索したりする。意外なことに、有島武郎の文章がひっかかった。彼は「ミリウ」(フランス語で「環境」)という言葉を使って、インフラの発達により地域文化が融け合っていく、近代日本の社会の動きについて論じている。

「鹿児島で産出したボンタンを青森の人でも食ふことが出来る世の中になつて来てゐます。青森の人はそれによつて鹿児島の空の青さも夏の暑さも、味はない時以上に想像することが出来ます。又青森の人自身が鹿児島まで行くのも、その容易さは維新以前に於ては空想だも出来ないことでしたらう。だから広義の自然から考へても青森人の環境は拡げられてゐる訳です。而して若しその青森人に生長の本然的な欲求がある以上は、縦令その人が自分の芸術制作の範囲を自分の故郷だけに限らうとしても、到底故郷以外の影響を蒙ることなしにはゐられません。かくて環境は相互的に(amalgamate)して地方的の特色を失つて行きつゝあるのは世界中に見られる拒み難き現象ではありませんか」
有島武郎「再び本間久雄氏に」)

極めて重要なことを、さらっと書いていることに驚いた。「青森の人自身が鹿児島まで行くのも、その容易さは維新以前に於ては空想だも出来ないことでしたらう」。今やボンタンどころか、世界中の最新ニュースを1秒で手に入れられる時代である。彼の推測は完全に正しい。

混ざり合い、とけ合っていくこと。私達が、社会のあらゆるものの影響を免れ得ないということ。これらは本当に重要なポイントだ。私たちはもう、かなり広い範囲の「社会」というものと、相互に影響しあうことから1秒も逃げられないのである(有島が言うように昔はそうではなかった)。私も、今この瞬間にすでに、社会に影響を振りまいてしまっているのかもしれない。多分そうなんだと思う。

自分の言動が社会に”反映”されるスピードは、多分これからもどんどん早くなっていく気がする。すごいことのような、怖いことのような。せめて、善きもののためにその流れを使っていきたい。そして、アマルガムとしての節度みたいなものを、独自に守っていきたいなと思うのである。あらゆるものに噛み付いていくなら、そのくらいのことは考えなければ。

お菓子をいただいて、22時すぎに帰宅。楽しさの余韻に浸りながらレトルトカレーを食べて爆睡。