山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

有名になれたら

とても好きで信頼している若き編集者、A君とランチ打ち合わせをする。就職祝いにと、PUNTOのペン置きトレイをくれた。こんなものが存在するということすら私は知らなかった。彼は本当に律儀な青年で、前もちょっとしたことを謝る(謝るほどのことではないのに)ためだけに私の家の近くまで来て、プレゼントをくれた。私も見習いたい、こういうところ。ものをあげるのがどうというより、気構えとして。

話は、以前から二人で抱えていた本の企画(私が著者のものではない)についてだった。事情があってペンディング状態になっている企画。話し合って、もうちょっと様子を見ようかということになった。

本作りは農作業みたいなところがあって、とりあえず温室で種をまいて一気に育てて一気に刈り取るということもできなくはないが、やっぱり旬に合わせたものの方が美味しく出来上がる率は高い。できれば熟した実を刈り取りたいものである。

打ち合わせ後の雑談の中で、80年代的意識と、「メンヘラ」文化についての話になった。私も彼も、クリエイティブ業界内で名の知られている一部の人たちの価値観に対して、何か違和感をおぼえてしまうのだ。それについてA君は、「あまりにも理解できない。ってことは、それって僕らが体験していないものなんじゃないかと思うんです。だからあれが70〜80年代の意識なのかなって」と意見を述べていた。その可能性はおおいにある。

「メンヘラ」文化については、そろそろ総括が必要なのではないかというのが私と彼の意見である。2chからこの言葉が生まれてまだ20年も経っていないが、他者を表現する言葉として、そして自分の「生きづらさ」を総称する言葉として、あまりにも世間に膾炙してしまった。多くの人が気軽に使うが、アイデンティティに関わるあらゆる言葉がそうであるように、その意味合いはとても曖昧模糊としている。私は、メンヘラという言葉のある種の便利さが好きでない。そこに放り込んで蓋をしているものと、そろそろ我々は向かい合うべきなのではないかと思う。

私がメンヘラについて語るなら、2000年代初頭にひっそりと存在した、若年層テキストサイトブームについては必ず言及したい。あのころ、中高生が運営する小さなテキストサイトたち(リードミーランキング上位にはもちろん載らないような)が、157ランキングなんかを根城に、ひっそりしかし着実に「病み」を醸成していた。それは一部が携帯小説文化と融合していき、残りはほとんどがmixiなどに散っていった。今では跡形もない。でも、私はあの時の空気感や、そこで行われていたやり取りを覚えている。今でも懐かしく思い出す。

A君に、「いろんな難しい問題を語るために、小池さんは林真理子のポジションを奪いに行った方がいいですよ」と言われてしまった。うーん、林真理子のポジションを取る次世代ははあちゅうさんなんじゃないだろうか……。まあでもやっぱり、「知名度」をとりにいく勇気は必要なんだよなと最近よく思う。私が児童擁護やフードロス問題について語っても注目してくれる人は少ないが、J・K・ローリング村上春樹が語ったら日本中のマスコミが飛びついてくる。ということは、一般大衆の関心も集まるのだ。

富と名声を得るということは、大衆の注視を、自分の名前だけで集められるということに他ならない。その力を社会のために使う意志がある限り、私もコツコツ名前を売っていこうと思う。そして、地味なテーマを日の下に引っ張り出すのだ。これを30代の目標のひとつにしよう。

 

<今日の小池>

朝 ローソンの納豆巻き サラダチキン

昼 マルゲリータピザ サラダ 

夜 ゴーヤチャンプル スープ

メモ ゴーヤチャンプルにご飯をつけるのを我慢した。