山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

「借りぐらしのアリエッティ」――不在の心臓

 この映画で描かれる「小人族」の生活には、奇妙に浮ついた印象を抱いた。彼らは、人間の食べ物や小物を「借り」て生活している。その行為は我々の価値観に照らし合わせれば「盗み」なのだが、彼らは、そこに特に思うところはないらしい。アリエッティが、翔に「君達は滅び行く種族だ」と言われたことに腹を立て、「私達がこうやって工夫して生きていることを、人間は知らないだけなのよ」と言い返すシーンがあるが、人間の生活に依存している彼女達がそれを「工夫」と言い切ることには、かすかに「盗人猛々しい」印象が漂う。
 原作の「床下の小人たち」では、小人は人間を「奴隷のようなもの」と認識しているため、そこに罪悪感などなくて当然である。それは我々から見れば当然偏見だが、彼らからすれば「文化」だ。勿論、文化だから肯定、文化でないから否定、などと言いたいわけではない。私が気になったのは、この映画には、「小人の生活」は描かれているが、そうした「異文化」が描かれていない、ということだ。生活レベルでの、会話レベルでの文化の断絶も当然あり得る。異人種同士の触れあいは、その断絶を介さなければ、始まりも終わりもないはずだ。 
 その違和感が最高潮に達したのが、物語のラスト、翔がアリエッティに「君は僕の心臓の一部だ」と語りかけるシーンである。正直私は驚いた。「心臓」を比喩に持ち出すような、そんな関係とはとても思えなかったからである。翔の心臓病設定を踏まえてもだ。
 脳が死んでも動き続ける、意志も言葉も要らぬ不眠の臓器。それに例えられる程の愛が、二人の間にあったとは、私は思わない。そして、別にそこまでの愛でなければ物語足り得なかったとも思わない。問題は、夢見がちな比喩だけで二人の関係を深化させ、物語のスケールを広げようとしたこの映画の脚本である。
 作画や音楽は素晴らしい。特に小人の家、人間の小物を使った暮らしぶりには心がときめく。スタジオジブリにしか作り上げられない良作であろう。しかし、まさしく「心臓の一部」のみを見せられたような、一抹の物足りなさが残ったのも確かである。次は心臓そのものを見て、その鼓動を聞きたい。