山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

「死ぬということは、きっとものすごく大きい冒険だぞ」

自分が追っているテーマは、率直に言えば死と暴力だと思う。すわ殺人事件、すわ婦女暴行、とかそういうのではなくてもっと観念的な。

なんでいつも死のことばっかり考えているのか(「死にたいと考えている」ではない)。
子どもの時にどさどさっと周りで人が死んだからだろうと思っていたけど、実はそうでもないんじゃないかなと最近考える。父が死ぬ前から、そういう傾向があったんじゃないか?

子どもの時はよく、悪口を言ってくる男子を殴った。

いくら剣道や空手に打ち込んでも、暴力衝動が押さえられないことがあった。特定の誰かをぶちのめしたいというよりも、自分に相応しい何かと戦ってボロボロの血だらけになりたい、という妙な欲求だった。剣道の稽古で痣だらけになると嬉しかった。痛ければ痛いほど、自分の人格的な欠損がチャラになっていくような気がしたものだ。自分が誠実に戦っている証拠が欲しかったのかもしれない。

リストカットも、中学生の時にしたことがある。「そういうことをすれば本当にすっきりするんだろうか?」と考えての行動だった。フェイス用かみそりなんかではなく、アウトドアナイフでしっかり腕や足を斬りつけた。別になんの快楽もなかった。後日母にバレて叱られた。

自分で自分に傷をつけたってそんなものはマスターベーションに過ぎない。それは「誠実な戦い」の証ではない。ある種のリスカ常習犯の求めるものは他者からの注視であり救済だと思うが、私が求めていたのは何かの「充足」だった。

大人になってそういう衝動は消えた……と言いたいところだけど、消えてはいない。やっぱり時々暴力的な気持ちになる。それをコントロールするためにいくつかの武術道場に行ったが、結局居着けなかった。「死と暴力」の周りに、びっしりと人間関係がついてくるからだ。私の場合、歳を取って意外だったのは、大人になっても案外鈍感になれなかったことである。

とある武術家は、私の型を見て「お前には猟奇性がある」と躊躇なく言った。その言葉は、私の頭の中でずっと鳴っている。

死にたいと思ったことはないし、殺したいと思ったこともない。死体写真集やら映像やら、そういうものにも全然関心がない。でも私は死と暴力の側にいると感じる。

父が死んだ後の、色んな宗教勧誘者との対話は、私の中の基礎になっている。何を言っても通じない相手との間にある、恐ろしく深い断絶。その神を本当に信じているのではなく、すがりついている人たちの頑さ。恐怖は感じなかった。ただその力は、私をものすごい勢いで何かの円の外へ追い出した。追い出される間際に、私は暴力という動物の息遣いを確かに聞いた。

もう円の中には戻れないし、戻りたいとも思っていないのだが。

 

すぐそのあと、ピーターはまた岩の上にまっすぐ立ち上がっていました。顔には、いつものほほえみがうかび、むねの中では、たいこがなりひびいていました。そのたいこは、
「死ぬということは、きっとものすごく大きい冒険だぞ」
といっていました。
『ピーター・パン』高杉一郎