山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

災害の後、うどんの力は失効し、フレンチトーストが脱構築された。

とあるトークイベントでとあるバーに行く。

最初に話しかけてきた一つ年上の男が、「自分はアートの仕事をしようと思って東京に出てきて、今求職中だ」と言うので色々質問したら、結局「3.11後の世界に対してアートは無力だとわかったから自分はアートはやめた」と言う。「まあ3.11で、アートの無力さっていうか自分の才能の無さに気づいた人は多いでしょうね」と返したら、「才能の無さじゃなくて……」ともごもごしている。

「あなたは、表現が無力になったと思わないんですか」
「思いませんね」
「どうして?」
「3.11云々関係なく、どんな表現も本来無力なもののはずでしょう」
「いや、だから3.11はきっかけに過ぎないんです。今僕はヘイトスピーチの方のことをよく考えている。あれに対して明確に訴えかけられるアートは誰も作れていないじゃないですか。それがアートの限界だと思う」
「へえー」
「あなた、ヘイトスピーチとか見たことあるんですか」
「ありますよ。2011年に渋谷に住んでたんだもん。NHKの周りじゃしょっちゅうやってましたよ」
「そうですか」
「ゲイジュツは役に立たないから自分では作らない。今後は何をするんですか? 作る方じゃなくてキュレーターとか? デザイン?」
「わかりません。僕はクリエイターにもキュレーターにもなりきれない存在だった。でも、もっと実用的なところで何かアート的なものに関わりたいし、社会から必要とされる仕事をしたいと思っているんです」

私の周りだけかもしれないけど、「俺はクリエイターにも●●にもなりきれないんだよ」と言ってウットリする男性をよくみる。私の場合、単純に「肩書き」として「こう名乗っていいものかどうか」と悩むことはあるけど、「自分はライターにも編集者にもなりきれない存在」とか思うことはまずないので、そういう気持ちには全然共感できない。そしていつも適当なことを言ってしまう。こういう時に優しくしてあげればモテるのかもしれないが。

「私の個人的趣味として、3.11の後の”言葉上のセンチメンタリズム”みたいなものが嫌いなんです。『●●の意味が失われた』とか。いつだって、しなきゃいけないのは、自分の仕事の意義を再確認してベストを尽くして、周りのひとを大事にすることだけだと思う」
「3.11があって、多くの人がそうしたと思いますけど。周りにそういう人がいなかったんですか?」
「信頼できる人たちはいつでもそうしていますよ。でもそれ以上に、3.11を理由におセンチなことを言うのに夢中な人を多く見ました。まあそれはそれで趣味として尊重したいけど、私はそういうクダ巻きをする前に動きたい。だからこそ、会社外の時間で自分がいいと思う本を作ってるんです」
「うん、それはとても地に足ついた、健全な生き方だと思いますよ(にっこり)」
「そうありたいと思ってますから。ま、とにかくまずは税金納めることですね。それができなきゃ話になりませんわ」
「はは、税金ですか」

すごく即物的で、物事の本質が見えない世俗的な人間だと思われただろうな。でも私はやっぱり、「3.11が言葉の力を奪った」とか「3.11がメディアの意味を変えた」みたいな考え方が大嫌いなのだ。変わるのは一人一人の人間であって、言葉の力を奪うのも、メディアの意味を変えるのも人間のはずである。つまり自分だ。「3.11後の世界に対しての●●の限界」というのは、要は己の才能の限界だろう。なんというか、ある種のいい訳として3.11を使うのは、色んなものに対して失礼だと思う。

大勢いるイベントだったのだが、4、5人としか話さなかった。やっぱりああいう場は苦手。

フリーライターの女性と喋って、彼女が「イベントとかやりたいんですよ」と言うから「やってくださいよ」と返したところ、「あ、これ来ないパターンだー、あははは!」と笑われて弱冠悲しかった。自慢じゃないが、私はそういうのはちゃんと行くタイプである。まあ仕方ない。実際行かない人が多いんだろうから。

少し遅めの時間にやってきた一つ年下の美人な女の子と話が盛り上がる。大手企業に勤めているが、今の働き方に疑問があり、自分のやるべきことを模索しているという。26、7というのはやはり人生の修正期、第二の思春期だなあと思う。彼女とは連絡先を交換した。こういう出会いがあると、やっぱり多少苦痛でもこういう場には来た方がいいな、と思う。