山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

あれもこれも書いてしまいたい

物書きの業病として、「見聞きした話を勝手に書く」というものがある。罪のない範囲もあるが、罪の発生する範囲もあるし、罪に問われなくても「そんなこと勝手に書くなよ」と思われる内容のこともある。それが元でトラブってる作家は古今東西枚挙にいとまがない。私も、本当は見たものや会った人のことなどどんどん書いてしまいたいくちだ。書かないのは、それが理由で仕事やなんかで面倒なことになったら嫌だからというだけで、つまり完全に保身のためである。

私は、人が私のことをブログやネット記事でどう書こうとどうでもいいタイプだ。事実誤認があったら突っ込むが、特に隠したいことはないし、どうとでも勝手に思っていれば、と考えている。聞かれればなんでも答えるし、それを誰がどこで他人にシェアしていようと別にかまわない。たとえば、私が人に話した個人的エピソードを、その人が雑誌の記事のネタに使っていたとしても全然平気だ。いちいち「ネタにしてもいいか」と聞いてもらわなくていいし、後で報告をもらわなくたってかまわない。相手が物書きなら余計「そんなの勝手に書けばいいのに」と思ってしまう。生まれながらの精神的露出狂なので、いちいちそんなことに頓着はしていられないのである。

20歳くらいまで、自分のこの感覚がわりと珍しいものであることを理解していなかった。だんだんわかるようになり、今はもう、世間の人たちがそうでないことはよく知っている。「あの人は断りなく自分の話を書いた」と言って怒ったり傷ついたりする人は多いし、実際、扱いに気をつけなければいけない話もたくさんある。他人をむやみに傷つけるのはよくないことだ。だから物書きには配慮が必要で、私も一応、その辺の塩梅は多少なりともつかんでいるつもり。

しかし本当のことを言えば、そうやって四方八方に配慮されて書かれた文章の多くはそんなに面白くないんだよな、とも思っている。とりわけ日記の場合は。富士日記とかゴッホの手紙が面白いのは、書き手が、自分の見たものを遠慮なく暴いているからだ。相手の情報をスクープ的に暴くということではなくて、単に自分の「感じ」を暴いている。そのなかにたまたま他人の情報も入っている、というその感じを、私はわりと愛している。

「そういうものはフィクションで書けばいい。フィクションにすれば人は傷つかない」と言う人もいる。正論かもしれない。でも私の中でフィクションとノンフィクションに本質的な違いはない。そしてフィクションにこそ傷つけられてきたし、傷つけてくるものこそが必要だったのだ。これが異端の感覚だということは忘れず、だけど同じような感覚の人たちのために、そのエッセンスだけはいつまでも供給できる人間でありたい。

 

前からちょこちょこ書いているけど、来月から、書けることの範囲がちょっと変わってくる。仕方ない。範囲が変わるからって、書けることが減るわけではない。カメラの位置をちょっとずらすだけだ。

というわけで今は夏休み期間で、夏休みの日記もあと数日ぶんで終わる。今日は昼に用事があって品川まで行き、用事を済ませたあとはピザ屋で昼食。たまに食べるマルゲリータは実に美味い。午後は某所で資料読みを頑張り、夜は友人と会う。ゴーヤ定食も、たまにすごく食べたくなるメニューのひとつだ。

 

<今日の小池>

朝 なし

昼 マルゲリータピザ サラダ ポテト オレンジジュース

夜 ゴーヤ定食 コーヒー

ヨガ 少し

メモ 夏の間にゴーヤをいっぱい食べよう。