山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

裸で向き合う

 5時半に起きて仕事。17時頃まで頑張る。
 本好きの上司との1on1で、「『ペスト』とか、直接的すぎて全然読みたくないですよね」という話ができてよかった。
 知人のジャーナリストといろいろ話す時間があった。報道畑の人々にとっての、「取材に行けない」ストレスはかなりのもののようだ。伝えるべきことはある。だけど伝えるためのファクトを集めに行くことができない。しかもこの新型コロナウイルスを巡っては、「確かなこと」がそもそも少ない。また報道業界はどうしてもアナログ寄りだから、ネットの情報のみをたどるとか、オンラインで人と話すといったことを取材としてカウントすることにはなかなか積極的になれないのだという。この苦難の状況のうえに、というかむしろ土台に、新聞業界特有の上下関係や派閥によるしがらみ、記者クラブシステムがもたらす権威との間の壁の問題がある。
 日本のジャーナリズムはいよいよ危機的状況にある、というのが知人の嘆きだった。私としては、なるほどと思うところもあるし、よくわからないところもある。
 この状況で小池さんは何をやろうと思っていますか、と聞かれて「私はまずは今までと変わらず、個人として語り続けたいと思っている」と返した。
 私は不真面目だから、ファクトを持ってこられないから語れない、とは考えない。自分で見たり考えたりして、そこにそれがあると感じたら「あると感じる」と書く。もちろん出し方は考える。フィクションにしたりエッセイにしたり漫画にしたり、自分の確信や怒りの表現にはなるべく暗喩の力を使っていきたい。
 そう話したら、さらに質問された。
「それを発信するときの小池さんは、どこから、どういう立場でものを言っているということになるんですか?」
「なんの立場でもないですね。ただの小池みきとしてです。私には物書きとしての所属はありませんし」
「何者でもない一個人として、裸で世界と対峙するということですか」
「そうありたいとは思います」
「それは、我々のような人間が一番苦手としていることかもしれません」
 何者でもない人間としてものを言うというのは、無頓着に発言することとは違う。そして実際は、どんな気分でものを言おうと、周りはこちらに立場を、属性を、傾向を見出す。だから「裸のつもりでものを言えば裸として見てもらえる」わけではない。
 だけどそういう、人のものの見方や心情の限界を認識しつつも、それに「反応しない」でものを言ったり書いたり人に接したりすることはできる、と私は思っている。