山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

卒論のためのメモ2

 私はしばしば、そこから外れた、極めて主観的で、個人的な記述の方を強く好んでいた、という事実である。例えば私は、クリエイター達の個人的な経験談などを読むのが好きだった。そのきっかけははっきりしていて、小学一年生の時に父親から与えられた、小学館火の鳥文庫の「手塚治虫」と「ウォルト・ディズニー」の伝記である。私はこの二冊を、数え切れないほど多く読み返した。どちらもまだ家にあるが、表紙などとうに失われ、四隅は丸く擦り切れ、中には鉛筆の落書きやら汚れやらが散在している。私はこの二冊から計り知れない程多くのことを学んだ。それは、漫画はペンで描くものである、などといった知識だけにとどまらない。戦争を経験した手塚が、今まで躊躇なく標本にしていた昆虫の、その命を奪うことが出来なくなったという話や、少年時代のウォルトが家の壁一面にコールタールで落書きをしたというエピソード、その一つ一つが大切だった。日常的に親しんでいる彼らの作品により私の心に現れる像と、文章の奥に見える光景とを重ね合わせ、彼らの生から作品へと続く道のりに心打たれること、それが私の学びだったのである。この学びは、今に至るまで私の体に染み付いている。作品に、必ず伝記的な背景を求めてしまうという意味ではない。作品の内外に、それを作品たらしめている霊魂の――必ずしも作り手一人のではなく、私をも含めた匿名的な“人間”の――存在を信じることが、私の習慣となったのだ。高橋英夫は、著書「疾走するモーツァルト」の中で、「小林秀雄の世代にいたって、日本人はモーツァルトをたんに美しい音としてではなく、背後に歴史と思想を負った精神的実体としてはじめて把握したということがいえる」と書いているが、私に、微々たる範囲のものとはいえ、“作品の背後の歴史や思想”を知らしめ、一つの作品を“精神的実体”としてとらえる方法を教えたのはこの二人の作り手であり、二冊の本であった。小学校高学年のときには、映画『もののけ姫』のムックを買い、宮崎駿鈴木敏夫久石譲などの、この大作にどう取り組んだかという苦労話を興味深く読んだ。彼らは評論家ではない。発言に際し注意しているのは、社会に対する公平性よりも、自分の本音に対しての公平性であろう。私はそうした彼らの言葉を、時に評論家の分析よりも頼もしく思うのである。世代別の人気アニメランキングなどより、その作家が何を食べながらこの作品を作っていたのか、などということの方が私に取っては興味深く、また、私の知りたい「社会」に近づけるとも感じる。こう書けばもはや明確なのだが、つまるところ、私が「社会」だと思っていた(いる)ものは、「人間」なのであろう。それは、社会の構成員としての「人間」ではなく――勿論それも含まれるのだが――、私に「社会」や「世界」というものを見せているものの総称としての「人間」だ。誰しもが、「社会」や「世界」を感じる時、この「人間」を通らずにはいられるまい。自分だけの「認識」、自分なりの「解釈」の世界――それをひとくくりに把握するためには、「人間」という概念がどうしても必要となる。「私の認識」を相対的に明らかにする唯一の反射光が「私以外の誰かの認識」なのだから、我々が他人の書いたものを欲するのも当然のことだ。私がオタク系コンテンツにまつわる文章を通して求めていた「社会」とは、法や経済で動き、新聞記事が取り上げる「現実の社会」であると同時に、それが私の中で秩序を持って腰を下ろすのに必要な、私の「人間という社会」だったのだ。私は本を読み漁る中で前者についての知恵をつけ、後者を次第に見失っていったというわけである。だから私は、それを取り戻さなければならない。いや、これまで正確に手に入れたことがなかったのだから、取り戻すという表現はおかしい。私は今、おそらくそれを初めて手に入れようとしているのだ。それを手に入れることがすなわち、私にとっての「人間」や「社会」を語ることになる。私以外の何ものかについて語ることができるのだ。

 私にとって、何故オタク的なものが特別なのかは既に記した。アニメや漫画の多くは、私に強烈な、極端なものはもたらさない。その代わり、受ける“感じ”の、どこからか外へ向かう運動によって、私の魂の淵を明らかにしようとする。その運動に、私は私の「人間」を強く意識する。文学は私に「人間」を信じさせるが、オタク的なものはそれをただ意識させる。私はこのことにこだわり、私の観察した「人間」の姿を描こうと思う。一九九六年からはじまる『エヴァ』旋風を、私は今思い出している。私は『エヴァ』という作品自体に「ハマる」こと自体はなかったものの、その周辺の状況には強い興味をそそられた。そういう人間はおそらくたくさんいただろう。私が『エヴァ』にしっかりと注目するようになったのは中学に入ってからだったが、『エヴァ』をとりまく言説のうち、何に一番惹かれたかというと、「『エヴァ』に強烈にハマッた人たちの言葉」だった。謎解き本や、様々な評論よりも何よりも、『エヴァ』に熱狂したファンの、理屈のない叫び。私がそれまで、どんな作品に対しても抱いたことのないような一種の“狂気”を、彼らは惜しげもなくさらけ出していた。(★)そこにちらつき、私の心をとらえて離さなかったものは、一つの作品を一つの思想に沿って論証していくことでも、また、時系列的に流行現象を整理することでもつかめない、不気味な生命の影である。“彼ら”の「人間」のかげろう、その揺らぎを、私は今も忘れていない。それは勿論、そこに絶対的に存在していたものではなく、私の心の投影に過ぎないのかもしれないが、それ自体は大きな問題ではない。私が自分以外の何かについて語るということは、どこまでもそれにこだわり続けていくということでしかないからだ。私はそこをつ私は、私が見ている「人間」の、そしてオタク的なものに誘われる“感じ”の動きの、その絶対的普遍性を信じることはしない。だが、それについての私の徹底的な正直が、私以外の世界へと私をつなげてくれる可能性には全身全霊で賭けよう。


 ロシアの詩人、パステルナークの詩にこのような詩がある。

 すべてにおいて行きつきたい
 その本質まで
 仕事でも、道の探求でも
 心の乱れでも

 流れ去った日々の核心まで
 それらの源まで
 根底まで、根源まで、中心部まで

 たえず、運命と出来事の脈絡をとらえ、
 生き、思い、感じ、愛し、
 発見を完成させること


 発見を完成させること――私はこの言葉に奮い立つ。