山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

教養

会社の先輩と話していて、ふと「教養」というキーワードが出た。

最近、教養についてよく考える。先日も、尊敬するクリエイターの友人と映画の話をしていてこの言葉が出た。

もともとは、松浦弥太郎”的”なもの(けっして松浦弥太郎氏ご本人というわけではなく、それを真似したようなものという意味)全般が微妙だという話だった。友人が、映画「海街ダイアリー」があまりにも駄作だったと言っていて、そこから、どうしてある種の「生活に根ざしたポジティブな物語」は今、なんでもかんでも松浦弥太郎的な世界観に収斂していってしまうのかという議論になったのだ。

松浦弥太郎的なものというのは、白っぽくってひらがなが多くて、何事もそんなに深刻には扱わず、「平易な言葉で普遍的な真実にちょっと触れているところがクール」という雰囲気はあるものの、政治的なものには触れず、常になんとなくハッピーで、じゃあ手作りのジャム作ってきますね(ここはby友人)、みたいな感覚だけが残る世界観のことだ。

この、「松浦弥太郎的なものウイルス」が、ありとあらゆるところに蔓延している気がしてならない。女性向け自己啓発の世界にはびこる「自分の直感に従っていればずっと幸せでいられるの♡彼に愛されてお金持ちにもなれる♡」という思想もこういうものからの派生だと感じる。

これは鏡リュウジもサイトの対談で発言していたことだけれども、この手の「愛されてお金持ちで常にハッピー」という世界観は、実はただの躁状態だ。そういう「躁状態」のみを切り取ったような作品が、フィクションの世界にもノンフィクションの世界にも最近すごく多い気がしてならない。ただ、もちろん「不幸な出来事を描いてさえいればよし」というものでもない。じゃあ、コンテンツのある種の重みというものは、いったい何のバランスによって担保されるのだろう?

私が「そういう作品に足りないものはなんだと思いますか」と聞いたら、友人は「教養だと思う」と簡潔に答えた。

教養とは何だろう。

片目で世界をシームレスにとらえながら、もう片目でひとつの対象をいろんなものから切り離して見続ける筋力。1億年くらいの時間の流れを感じながら、1秒や1分や1時間を表現できる感性。ありとあらゆる学問体系の存在を感じつつ、その網羅への不可能性を受け入れつつ、しかしなおかつそこに甘えずに思索を深めていく姿勢。いろんな案が浮かぶけど、どれだけ並べても教養の核にはならない。ただ本を読めばいいのでもなく、学歴を得ればいいのでもなく。難しい。

この辺りをきちんと言語化できたら社会の役に立つのかもしれない。ので、物書きとしては頑張ろうと思う。