山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

罪深い顔

 それをモンズは「罪深い顔」と表現した。強盗や殺人以外にも、罪と呼びたくなる領域があることを、私達は知っている。それは例えば、ムーランルージュの堕落した狂乱に淀む罪であり、酒に浸った後の疲れそのものの罪である。それらの尾を束ねるのが、キリストの言う原罪なのであろう。我々日本人の多くは、西洋人程にキリスト教の影響下にはないが、特に何が起きたわけでもないのにふと己が醜く感じられたり、悲しくなったり、苛立ったり、一度でもそういった虚無に襲われたことがある人間ならば誰しも、その罪の一端が理解できるだろう。私が子どもの頃、「ムーランルージュにて」に見た不気味さも、この罪の影だったに違いない。彼の描く歪んだ線は、写真に現れるシルエットには重ならないが、魂の歪みを正確になぞっていた。彼の描く踊り子は、音楽に合わせた正しい振り付けのダンスを踊っているというよりも、精神の狂乱に合わせて体を揺すっているように見える。


以下引用

(略)ミュシャの女性像は、彼のポスターにおける先達として同時代の論評から常に引き合いに出されてきたジュール・シェレやウジェーヌ・グラッセに比べても、あるいはモダン・アートと直接結びついたロートレックやボナールのポスターに比べればなおのこと、すぐれてアカデミックなデッサンや肉付け、細部の描写と理想化を特徴としている。こうした入念な細部描写や肉付けやアカデミックなデッサンは、なぜ観者を「安心させる」要素であったのだろうか。(略)アカデミックなヌードの神話的な主題や伝統的ポーズ、理想化されたプロポーションや体毛のない滑らかな仕上げの身体描写、適切な肉付けといった特質は、女性身体表象の「芸術的な」枠組みとしてのアカデミズムの中で定式化され、こうした枠組みに沿うことで記号化された身体表象は、T・J・クラークが指摘するように、身体と性を切り離す。現実の生身の女性身体の対極にあるこうした一般化され、記号化された女性表象は、見る者に、彼を脅かす危険で生々しいセクシュアリティを突きつけることなく、女性身体をヘテロセクシュアルなまなざしで消費することを可能にさせる。その意味で観者を「安心させる」のである。
ユリイカ 特集*アルフォンス・ミュシャP71~72 天野知香「パリのミュシャと「装飾芸術」の時代」

※業とは、中村元緒「佛教語大辞典」によれば「①なすはたらき。作用。②人間のなす行為。ふるまい。行為のはたらき。行ない。動作。普通、身・口・意の三業に分かつ。身と口と意とのなす一切のわざ。すなわち、身体の動作、口でいうことば、心に意思する考えのすべてを総称する。意思・動作・言語のはたらきの総称。意思にもとづく身心の活動。③行為の残す潜在的な余力(業力)。身・口・意によってなす善悪の行為が、後になんらかの報いをまねくことをいう。身・口・意の行ない、おおびその行ないの潜在的能力。特に前世の善悪の所業によって現世に受ける報い。ある結果を生ずる原因としての行為。業因。過去から未来へ存続してはたらく一種の力とみなされた」とある。

釈尊は、輪廻思想をとくに否定することばも発していない代りに、それを重要視する発言もしていない。しかし業の思想は、積極的に取り入れ、みずからを行為論者(kammavadin)と呼んでいる。

 

すなわち「行為」とそれがのちに影響を与える「潜在的力」としてのカルマを認め、人間が否応なしにカルマに伴われている事実を如実に見るところに正しい生き方が展開されることを強調した。世界はカルマによって成り立ち、人間はカルマによって成り立つ。一切の生命あるものはカルマによって束縛されている。