山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

河瀬直美「玄牝」――膣磨きの陶酔

 まさしく膣だ――しっとりと暗い“古屋”の中から、光さんざめく戸外を映したカットを観る度に、私はそう思った。二十三年前、私もこの陰りから、祝福の光のもとへと走ったのだろうか。外に出た瞬間の号泣も、母の喜びも、もはやすっかり忘却の彼方だが、今にもそれを思い出してしまいそうな映画だった。
 生まれた瞬間の記憶がある、と『仮面の告白』に記した三島由紀夫は、別の作品の中で「海女のなかでも老練な母親は、海の底の薄明の世界が女たちの世界であることを知ってゐた。昼も暗い家の中、分娩の暗い苦しみ、海底の仄暗さ、これらは一連の、親しい世界である」と書いた。“女”には陰がついて回る。それは、我々女が腹の下に、暗く狭い部屋を抱えていることと無関係ではないだろう。だがその暗さとは、単に静や孤独を司るわけではない。暗さは死を見つめているが、死とは生の半身、一つの強大な力である。「死を否定することは、生の否定でもある」と吉村医師は繰り返す。妊娠したら病院へ行けばいい、医者の言うことを聞いて大人しくしていれば大丈夫――そのような甘い考えを、吉村医師は否定するのだ。「出産は女の喜びである」という言葉はただのきれいごとではない。妊婦は、生死の強烈なせめぎ合いを受け入れ、自身の生命力でそれを喜び乗り越えることができる、世界一神秘的な戦士なのである。
 “古屋”に通う妊婦達は、一日三百回の壁拭きスクワットを欠かさない。米ぬかをつけた布を持って木壁の前に立ち、上から下へと真っ直ぐ拭き下ろすのだ。一体あの壁は、これまでに何千回、何万回磨かれてきたのだろう。画面に映っていたその壁は、黒々と深い艶を持ち、戸外から差し込む光に照らされて、鏡のように美しかった。二人分の命の重みで磨かれた古屋の内壁。それは、出産の喜びや悲しみを語る母達よりも、そしてもしかしたら、深い愛と孤独と矛盾に生きる吉村医師よりもずっと雄弁に、“玄牝”の神秘を物語っていたかもしれない。