山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

たまご食べたい

昼、写真家の友人が渋谷まで来てくれたのでパン屋でお茶をする。新しく考えている企画についての意見を求められ、その流れで網野善彦の話などした。チーズつきのパンを少しかじりつつ。

「賎民に対する差別」の概念は、中世以前と以後で違っている、と網野氏は著書でよく書いている。現代で差別といえば、部落差別や障害者差別などがそうであるように「自分より劣っていると信じているものに対する不当な嫌悪、偏見」のようなものがすぐさまイメージされるが、中世以前に存在していた差別は少し違う意味合いを含む。異界、越境に対する畏怖の念のようなもの。ヒエラルキー内の「下向き」の視線ではなく、外の存在に対する眼差し。そういうものに接近したコンテンツをつくれないだろうか、という話だった。

これは非常に難しいテーマである。「異物への眼差し」というものを現代にうまく切り取れるかどうか。

眼差し自体は死んではいない、と私は思う。でもそれが機能する環境、機能させる装置というものがあまりにも少ない。「それ」は現代においては、あまりにもいろんな社会通念に吸収されやすいもろい観念なのである。現実的に今存在しているありとあらゆる差別に対して、真に誠実であるとはどういうことか、という問題もある。これはつまり、自分の眼差しをどこまで厳密に批評できるかという勝負のようなものだ。

それでも彼女の話を聞いて、写真というジャンルでならアプローチの手立てはあるのかもしれないとも思った。彼女の提案は、簡単にいえば「個人の眼差しという地点を大切にする」というものだった。結局、なんであってもそこが一番重要だよなと平凡なまとめ。

午後は人と、書籍の構成というものについてああでもないこうでもないと話し合う。こういうことができる環境であることが嬉しい。

話の中で、「小池さんには教養を感じますよ」と言われた。教養があるってどんな感じなんですか、と聞いたら「この人は、私が何を言っても自分の感情だけで断罪してくることがないだろう、という安心感がある。多様性を知っているってことが教養なんじゃないかと思う」と言われて、嬉しいやら気恥ずかしいやら……自分に教養が本当にあるかどうかはまだわからないが、教養があると思って見てくれている人に恥ずかしくない振る舞いをしなければ。そして教養という言葉を聞いて、異界への眼差しとか、畏怖の念といったものもまた教養なんだろうか現代においては、と考える。

 

夜、遅く帰ったら夕飯として食べられるものがろくになく、とりあえず目玉焼きをふたつ作って食べる。ツレヅレハナコさん風のを作った。私は日本でも相当上位にくいこむ「卵好き」だろうと思っていたが、ツレハナさんの卵愛には全然負けているなと思う。私ももっと、卵が食べられる幸せをかみしめながら生きていきたい。

なお、私が卵好きなのは「ぼくは王さま」シリーズのせいである。このシリーズに出てくる王さまは卵料理が大好きなのだ。「王さまは、たまごやきがだいすき。朝も、ひるも、夜も、いつもたまごやきを食べます」。ああ、これだけで私もたまごやきが食べたくなってきた……。