山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

どの人間もかわいい

取材の日。格闘家に、リカバリの重要性について説明された。

彼が言うには、「疲れ切ってから回復させようとしても無駄」なのだそうだ。みっちり疲労してしまったら、あとは寝るしかないらしい。なので、疲れる前に体を回復させ、のどが渇く前に水を飲み、腹が減る前に何か食べないといけないという。テレビゲームみたいに、HPが残りわずかになったらハイポーション、というわけにはいかぬということである。私はもろにそういう風に生活してしまうタイプなので反省。

ライティングも、無理を重ねると結局効率が悪くなる。毎日のように一日中、夜中までねばって書くよりも、毎日5時間ずつきっちり集中して書いた方が、私の場合間違いなく仕上がりはいい(うちの社長のような超人は除く)。村上春樹だって日々定量で仕事を納めている。「気力が尽きるまで走れる根性」よりも、「日々自分をコントロールできる気力」の方が、歳をとってくると大事になってくる。もちろん人によるとは思うが、女性の場合は特にそうだろう。われわれは、出産適齢期を超えてもまだ山道を全力疾走できるような構造の生き物ではないのである。

「疲れ始めたところですぐさまリカバリ」をできるようにするためには、常に自分の状態を正確に把握しておかなければいけない。尿意や睡魔、空腹感にまったく気づかないというのは、まず生き物としてよろしくない状態なのである。私は自律神経がとても失調しているので、このあたりの感覚にまったく自信がない。自分の体の声にもっと耳をすませなければ。

昼はいつもの定食屋でゴーヤ飯(ゴーヤチャンプルーとご飯のみ!)。食べながら、鏡リュウジ先生の本をあれこれ読む。鏡リュウジ先生は、現代日本の知性を支える重要な柱の一人だと思う。実はめちゃくちゃアカデミックな人なのである。「占い=オカルト=インチキ!」という発想の人には、鏡先生が訳してきた数々の専門書を一度読んでもらいたいと思う。占いの歴史は、実は科学と同じで、人間の知性と進歩の歴史そのものである。今、占星術の世界の最先端で何が議論されているのかがすごく気になる。鏡先生の講演、聴きに行きたい……。

 

閑話休題

何人かと同時期に、自己肯定感について話をしたのでまた色々考えてしまった。

私の周りには、五体満足で賢くて、仕事ができて友達も多く、しっかりとした学歴を持ち、特に金には困っておらず旅行や趣味を楽しんでおり、性格的にも魅力的な女性がいっぱいいる。でもそういう、私から見れば「ふつーに素敵」と思う人たちの中のけっこう何人もが、「自分が好きじゃない」「自分に自信がない」「オワコンの人生だ」てなことを口にするのでたまげる。 

「小池さんが羨ましい」というニュアンスのことを言われることもある。多分、私がいわゆる「こじらせ」の要素の薄いタイプだからだろう。

プチ毒親持ちで、父親と死別していて、元いじめられっ子で、天然パーマ+デブ+アレルギー性皮膚炎で若い時はずっと外見ボロボロ、不健康すぎて通院三昧、高校の時は赤点女王で卒業するのがやっとで、地方の学力無用な大学出身、28歳の終わりまで男性に一度も愛の告白をされたことがなく、貧乏借金持ちなのにろくに定職にもついていない、そんな女だったわりに、私は多分あまりこじらせていない、確かに。

人生そのものは、私とてそれなりに辛かったし、今もそれなりに辛い。ただ、「自分が自分であることが嫌だ」という苦痛を味わったことは多分、生まれてから今日に至るまでほとんどない。それってなんでだろうか? 

まあ、極論を言えば「親の教育がよかった」になってしまうんだろう。自分が「親の教育」だけで出来上がっているとはまったく思わないが。

これはちょっと特殊なところでもあるんだけど、母は、私たちのことを「自分の子どもだから可愛い」と思っているタイプではなかった。うちの母は、猫の子にも乳をあげてしまう犬みたいなもので、「この世の赤ちゃんは全てかわいい、自分の全てのリソースを投げ打って愛する価値がある」という人間なのである。

そういう愛情のかけられ方について、小さい頃の私は悩んだこともあったらしい。母があまりにも分け隔てないので、3歳の私は、深刻な顔で母に「ママは、ミキタンのことが一番大事なんじゃないんだね」と言ったそうな(母、絶句)。

で、そういう「特別扱いしてもらえない悲しみ」みたいなものは長く引きずったんだけど(今もなくはない)、その代わり私も、やっぱりどの子どももかわいいと思う大人に仕上がった。

どの子どももかわいいとはどういうことかというと、その辺にいる人たちは全て、「かつては絶対的にかわいい存在だった」だと思えるということだ。もちろん、個人的に許せない相手はいっぱいいる。そもそも狭量なので、大抵の人間のことは嫌いかどうでもいい。でも、「生まれてから死ぬまで一度も愛されなくていい人間」なんて一人も存在しないということも同時に強く思う。自分の中のこの感覚を、どう社会に還元していけばいいのか、そこがまだはっきりとつかめていないのだけれども。