山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

名付ける夜

美人で頭が良く健康で、社会的にもかなり成功していて、やはり社会的にきちんとした功績を残している優しい配偶者がいる。そういう人のことを、私たちはつい「だいたい人生に満足している、自分に自信を持った人だろう」と考えてしまう。でも実際はそうではない……というのも、大人になればだいたいの人は理解しているはずだ。

とても魅力的だと思っていた女性と少し長く話して、彼女が実は色々なことで深く悩んでいると知った。生まれや、育ちや、性格や、いろんなものについて「自分は何か足りないのではないか」と疑念を持っているようだった。

そういうことを、私はもちろんもう不思議には思わない。そしてその苦しみを、十代のときのように、「でも所詮、何不自由ない暮らしをしている人の贅沢な悩みじゃないか」とも思わない。苦しみの比較に意味はないと、29歳の私は知っている。

不思議なこともあった。彼女は私から見ると本当に素敵な人で、引き出しもどっさりもっているのだが、自分の話をすることが普段はほとんどないという。そもそも特に聞かれないらしい。これが本当なら不思議である。私とは比べものにならないくらい、彼女の周りにはたくさんの人がいるというのに。なぜ彼らは、彼女の人生に興味を持たないのだろう。世間の人たちの、他者への興味の薄さには時々驚かされる。

その人がどんな風に生きてきたのか、何をどんな風に見ているのか、今考えていることは何なのか、何が好きで嫌いなのか、そういうことを知れば会話はもっと深く、面白くなるじゃないか。自分の話をただ聞いてもらうだけの会話の何が楽しいのか? 占いやカウンセリングですら、相手が本当にただの相槌マシーンだったら、満足度も半減だろうに。

 

酔っ払って寝たのに、いやだからこそなのか、朝6時半に目覚めた。風邪気味。しっかり食事を作って食べてから出社。昼に某社へ取材に行った。日差しが猛烈すぎて怖くなるくらい。夕方は、社員全員でケーキを食べた。平和な午後だった。

夜は転職の決まった友人とイタリアンレストランで食事。サラダに、豚の頬肉のベーコンと揚げナスのパスタ、食後はカモミールティとアイスクリーム。黄色っぽい、卵の多いアイスクリームだとそれだけでご機嫌になる。「シン・ゴジラ」の話を改めてした。

友人と別れ、深夜に別の男友達とスカイプ。第二子が生まれたので、名付けの相談にのってほしいとのこと。喜んで相談にのり、多少の近況報告もし合う。彼との出会いはツイッターで、確か相互フォローになったときはどちらもまだ大学生。22、3歳だったはずだ。それが今や彼も二児の父に。感慨深いなんてもんではない。

私が名付けに関与した人間がこうしてまた一人、社会の構成員となっていく。とても厳粛な気持ちになる。名前というのは最初に受ける祝福であり呪いだからだ。彼女の人生に、少しでも善き力が加わりますように。

赤ちゃんを見に行かせてくださいねと言ったら、みきさんの彼氏さんにも会いたいと返された。こうやって人の輪が広がっていくのだろうか。