山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

構成の魔法

ものすごい土砂降り。ちょうど取材に出るときに大雨となり、全身ひどいことになった。

会社で、自分たちの運動経験について話す場面があった。社長が「子どもの頃は、土地柄+男子校マインドに染まっていて、話すときはいつも『相手と真剣勝負になったら勝てるのかどうか』を考えていた。だから女の子がつっかかってくると、『勝てないのになんで?』と不思議だった」と言うので、私が「あ、それちょっとわかります。私の場合、どの男子に対しても、『こいつと喧嘩したら私は絶対負けるんだ!』という絶望があって、だから武道に走っていたんですよね。毎日手の骨を鳴らしたり、木を殴ったりして手をごつくしようと頑張っていて」と自分のエピソードを披露したところ、美しい田中さんから「皆さん戦うことを考えすぎです」と冷静なツッコミが。

今日は頑張って構成を考えた。前回の構成よりもずっと良くなった、と言われてホッとする。

出版業界にいると、編集者からの「ライターがいない」という嘆きを頻繁に聞く。しかし、ライターがいないということはない。むしろいすぎるくらいいる。この場合の「ライター」というのは、「構成が作れるライター」のことなのだ。一定以上のボリュームを持つコンテンツ内に、メロディを作る技術。文章でそれを奏でられる技術。それをしっかり持っているライターというと、実はこれが結構少ないらしい。

年上の人達と話していると、編集者の世界からも、この「構成を作る能力」が失われつつあるという話がよく出る。昔とは「有効な構成」の考え方自体が変わってきているというのもあるが、やっぱり、皆(業界の人達)が全体的に本を読まなくなっていっていることが原因なのだろうという気がする。

「本を読まない人が多いというのは嘘だ、PCやスマホで、現代人はかつてのどの時代の人よりも文章を読む」という言説がある。それは確かに嘘ではない。でも、「ものを読める」人は着実に減っている気がする。スマートニュースで開いたコラムを2〜3秒眺める、という営みは、やっぱり物語を嗅ぎとることの訓練にはできないのだと思う。

優れた本には、かならず構成の魔法がかかっている。「これの次にこれを読むことになるからこそかかる魔法」というのが、本の中にはあるのだ。その匂いを嗅ぐ能力は、より多く、より真剣に読まなければ多分身につかない。小林秀雄を知らない編集者や、ドストエフスキーを読んだことのない編集者と出会う度に、私はやっぱりひるんでしまうのである。

夜はオリンピックを観戦。吉田沙保里の準決勝戦があまりにも強すぎてひょえーっとなる。