山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

愛によって幸せになる資格

仕事場の近くにあるコメダに入った。ぱっと見豪華なカフェなのだが、実際は狭いし、オペレーションもうまくないし、全然リラックスできなくてがっかり。小さい頃からコメダに通い詰めていた名古屋県民として、「これはコメダではない」という結論に達した。みかん氷は美味しかったけど。

6・7月とけっこうぐうたら過ごしていたのだが、この2週間くらいはむちゃくちゃ本を読んでいる。30冊くらいはいっただろうか。今は材料をぐつぐつ大鍋でかき混ぜているところ。

仕事関係の本ばかり読んでいると発狂しそうになるので、普通の読書もする。

昨日は風呂に入っている間に、中園ミホの『ぐーたら女の成功術』を読んだ。中園ミホは、私がこの世でもっとも愛するテレビドラマ「やまとなでしこ」の脚本家である(他にも「ハケンの品格」とか「anego」など)。「成功術」とは書いてあるけど普通のエッセイ本。この人の、貧乏育ちで会社員としては使えなくて占い師の経験があるところは、個人的にちょっと共感するポイント。酒乱で恋愛体質なところは全然違うけど。

私は本当に「やまとなでしこ」が好きなのだ。何度も見直しているし、初めて見たときからずっと好きだった。キャスティングも一人を除いて最高だし、主題歌も最強だし、シナリオは完璧。押尾学さえいなければ、このドラマはいつまでも再放送され続けただろうに。

中園ミホの描くドラマはいつも地に足ついている。ぶっとんだ設定を持ってきていてもそれは変わらない。少しばかり「地味」ですらある。でも私はこの地味さにものすごい快楽を感じるのである。そこに何人もの違う考え方の人間が生きている、ポリフォニーの響きをビンビン感じる。人間の心は甘美なものだと、中園ミホが心の底から信じているのがよくわかる。そしてこのエッセイからも、その思想はみっちりと感じた。

そして今日は、植本一子の『かなわない』を読んだ。写真家の女性の、家庭と不倫の恋と、自分の心の闇について書かれた日記。もともとは自費出版で出していたものらしい。トーストが表紙なのが素敵だ。

私は日記というものが全般的に好きなので、この日記もわりと楽しんで読んだ。しかし、これは反感をかうだろうなとも思った。アマゾンレビューを見たら、実際「子供がかわいそう」だの「悪いのは自分だ」などのコメントがいくつもついていた。

いつも思うことだが、女性は女性のドラマに厳しくなりやすい。自分で自分に厳しくしているつもりだし、その厳しさの見返りを幸福という形でもらいたいと常々思っている人は、他人がちょっとそのルールに反していると感じるともう我慢できないのである。

同じことを今日、とぅぎゃったーのとあるまとめを読んでいて思った。

ヤンデレ夫、子供達は何処へ?キュン妻先生が突然「日刊ヤンデレ夫婦漫画」の更新休止を発表、“お一人様”を匂わせる行動を……?(随時更新)

『日刊ヤンデレ夫婦』というのは、少し前に角川書店から出たエッセイコミックで、異常にラブラブな夫婦とその子供たちの日々を描いたもの。実録風ではあるが間違いなくフィクションだろう、という類の本。別にそんなの珍しくもなんともないはずだが、愛されすぎている私、というテーマがテーマなせいか、アンチの活動がえらく激しい。ひたすらキュン妻ウォッチに励み、揚げ足を取っているようなアカウントが腐るほどあるから呆れる。種村有菜がジャンヌを連載していた頃の2chを思い出す光景である(世代……)。

「実録と銘打っているからには嘘は許されない」とか、「説明する責任がある」などと言っている人たちは暇だなと思う。『かなわない』のレビューもそうだ。なんでみんな、そんなに他人の私生活に対する責任追及ができるのだろうと思う。相手に子供がいると「子供がかわいそうだから」という理屈が発生してしまうのだが、これだって本当にやばいなら児童相談所に垂れ込んでおけばいい話であって、ネットでぐちぐち叩いたってその子供にはなんの救済も訪れない。

やっぱり風潮として、「女ドラマ」の世界には「正しい振る舞いをしている女こそが愛され、結婚相手として選ばれ、子供をもうけて家庭を作っているべき」という価値観が根強くあると思う。厄介なのが、恋愛も結婚も家庭円満も、外野が「享受する資格」をやたら問うものだということだ。主体的、能動的であることが推奨されない。

私は、女性向けコンテンツをとりまくそういう空気が子供の頃からすごく苦手だった。だから「やまとなでしこ」が、自分の欲望を素直に口にだし、そして最後に愛を見つける桜子さんが好きだった。

そろそろ、「愛によって幸せになる資格」をやいのやいの言わなくてもいいレディ・カルチャーを盛り上げていきたいもんだ。