山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

「身近」ってなんだ

夜中の4時に寝てまっとうな目覚めが得られるわけもなく、12時に吐き気とともに起き、そのまま再び撃沈して14時過ぎに布団から這い出た。夜更かしした上にジェイゾロフトを飲むのは結構危険である。そして、10ミリを飲んでいるのに最近全然効かなくなってきたのがやや怖い。脳が覚醒しすぎている。あと、昨日のボイトレでやった筋トレのせいで筋肉痛。

目覚めを促すために喫茶店に行き、あたたかい紅茶とホットケーキ。頭にふりかかる霞と格闘しつつ、こつこつと『白痴』を読み続ける。ガーニャの「卑怯な人間は潔白な人間を好むんだ」というセリフに色々と物思い。それから『男は火星から、女は金星からやってくる』を読んだ。ここまでバッキリ男女を分けて考えると爽快だ。ベストセラー本だけあって、内容に説得力があった。

帰宅後はずっと、エッセイ原稿の仕事をした。短い文章というのは難しい。

 

ところで、選挙のことを考えている。本当に盛り上がらない参院選だ。

18歳選挙権解禁ということで、例年にも増して若者向け選挙啓発の記事やら本やらをたくさん見る。18歳前後の芸能人があちこちに引っ張り出されているし、各政党とも、数少ない若者との接点である奨学金問題にやたらと言及している。

それはいいのだが、いい加減やめりゃいいのに、と思う言い回しがある。「政治は身近な問題です」みたいなやつだ。これはもはや、若者向け政治話の枕詞である。「たらちねの」とか「あかねさす」と同レベルの頻出用語と化している。

「政治を自分とは無関係な問題だと思わないでほしい。実は誰にも関係がある、身近な存在なのです」

しかし、そもそも「身近」って何なのだろう。「身近に感じる」「関係があると感じる」とはどういう状態のことを言うのか? 

なにか事象に巡り合ったときに、「これは自分の人生に大きく関わる」あるいは「関わらせたい」と思うことがある。たとえば恋愛。ある少年が、美少女転校生に一目惚れした。このとき、「恋愛」は彼にとって身近な問題である。脳みそがその問題に支配され、寝ても覚めても彼女のことを考える状態になる。さらに言えば、「彼女」自体も身近な存在だ。なにしろ週に5日、1日のうち7時間くらいは同じ教室内にいる。間違いなく身近である。

しかし、「彼女」自体が身近にいなくても、「恋愛」的感覚が彼の脳内を支配することはあり得る。アイドルの追っかけなんかがそうだ。たしかに握手会に行けば会えるし、一瞬ではあっても触れられる。アイドルを売る側は今、そこを「身近」と称して売りにする傾向が強い。でも決して「身近なところ」にはいないのだ。彼がただ、彼女の写真や動画を見て、「勝手に身近に感じている」だけである。

クラスメイトへの恋愛と、アイドルへの恋愛の「身近さの強度」を、「当事者」以外の人間が勝手に決め付けることはできない。その問題がどれだけ自分にとって切実か、見えない指がどれだけ自分の心の柔らかい部分に深く突き立てられているのかなんて、外側からはほとんどわからない。クラスメイトだから真剣な恋愛でアイドル相手だからライトだなんて言ったら、「ガチ恋勢」に火あぶりにされるだろう。

じゃあ、「政治」における「身近」とは何だ?

とまあ、「身近」という観念についてから色々考えていたら長くなってきたので続きはまた今度書く。

色々考えていたら眠れず、結局5時頃に寝た。

 

<今日の小池>

朝 紅茶 ホットケーキ

夜 ささみの唐揚げ 納豆 ごはん

ヨガ 5分