山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

好きにすればよし。

今日は1日家に閉じこもっていて、仕事以外何もしていないのであまり書くことがない。が、いろいろと学びと成長の大きい1日だった。その人がその人である限り、その人固有の問題からは絶対に逃れられないということを改めて痛感、そこに成長の鍵があるということもまた何百万回目かに思った。今回の学びでまた相当魂の筋肉がついたことだろう。

私は「成長」という概念にこだわりがある。「自分は成長できていない」と感じる時が一番悔しいし悲しいし、そういうことが極力ないように努力している。でもそれって人に強いれるものではないなあ、と最近とみに思うのだ。

私と同じく「成長原理主義」的な友達は「成長しないことを自分に許すなんてダメだ」と言っており、身近な人の「成長したくないモード」に対して非常に厳しい。私も、去年一昨年あたりまではそうだった気がする。でも、人間には「成長しない自由」もある。成長しなくても時間は流れて考え方も変わるし、どうせどいつもこいつも歳をとってそのうち骨になる。骨になってしまえは誰だって同じカルシウムだ。私は自分の成長を愛しているし、成長する人やものや場所が好きだが、それは私の嗜好でしかない。内観、自己開示、そして克己にはとてつもないエネルギーがいるし、やりなれていない人には宇宙船の操縦くらい難しいのである。誰もかれもがそういうことをして、スピリチュアル的に目覚める必要もない。成長する人間の方が上だ、なんてこともない(この考え方が入ってくると、世界は一気にカルト宗教になる)。

大事なのは、自分の問題と相手の問題を混ぜて考えないことだろう。その人が何に悶々していようが、何から逃げようとしていようが、それはその人の選択であって、他人がどうこうするものではないのだ。それで相手が成長できなくてすっ転んでもしょうがない。結局、助けを求められたら助けるけど、それ以上のことはできないんだから。それはどんな人間のどんな関係にあっても同じだ。親子だろうが兄弟だろうが恋人だろうが友達だろうが。

そう思えるまでに、20年くらいかかった。今までは、とりわけ親との関係において、相手の問題も私の問題のように考えてしまっていたし、細部にわたって自分の責任を追及し、自分で自分の裁判ばっかりしていた。今はもう、そういうことは極力しないようにしている。

うちの父は、「死にゃあしない」というのが口癖だった。そう言いながら働きすぎて死んだのだから完全に嘘つきだが、私も最近、何があっても「まあ死にゃあしないしな」と思う。他人を意図的に(あるいは堕落の結果として)傷つけたりせず、自分に対して恥ずかしいことさえしていなければ、そして法律さえ守っていれば、あとは何していてもいいんじゃないの、というのが私の考えだ。自分にとって高潔な行いが、相手にとって恥ずかしい場合があるのは仕方のないことだ。わかってから調整するしかない。

これを読んでくれている人の中には、私より若い人も多い。その人たちに言いたいのは、自分以上に自分のことをわかる人間は絶対にいないのだから(他の人には、1%わかってもらえればそれで上出来な方である)、自分を正しく守るのも自分の仕事だということだ。されて嫌なことにはノーを言い、それでもされるのであれば、それは相手の抱えている問題なので手を引くのが一番。ひとりふたりの対応(多くの人の場合、それは「親」が基準になる)を絶対の事例にし、「自分はこの程度の扱いがふさわしい人間なんだ」と思わないことだ。それは相手のためにも必要な考え方である。

にしても、連休は原稿で閉じこもって過ごしてしまったのでいささか肩が凝った。もうちょっと集まりに出て新しく人と知り合ったりとかなんとかしようと思う。タロットカードで言えば「愚者」を今、私は持って歩きたい気分である。