山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

「全力」は「無難」の一部にとどまる。

朝から夕方まで仕事。夜は友人と近所のハンバーグ屋で肉をくらいまくった。かなり美味しいハンバーグだったが、惜しいことにはサイズが小さすぎた。友人も「もう一つ欲しい」と言っていた。

4月の終わりくらいから最近まで、一ヶ月丸まるずっと内省モードであった。この間、いろんな方面で起きてほしくないことが起こったし、言われたくないことを言われたし、見たくないものを見て凹んだからである。

イチローの「スランプのときが大事」説じゃないけど、こういう時こそが自分を掘り下げるもっとも大事なタイミングだ。自分を探すのに旅はいらぬ、体一つあればよし。あとはノートとペンがあればことは足りる。

今回初めて、「やっぱり私は普通に生きて行くのが無理なのでは?」と弱気なことを思ってしまった。普通というのは、主に経済的な意味で。

何かあるたびに、私の体はダメージを受けすぎる。倒れたり、入院したり、うつ病になったり、蕁麻疹が出たり。今回は血尿も出たし、不正出血もあったし、不眠は止まらず、歯ぎしりがたたってか歯も欠けた。病院に行きまくり、山のように薬をもらい、家で寝込んで過ごしているとうんざり千万である。なんといっても、ショックを受けた後のリカバリにかかる費用がとんでもない(当社比的には)。

私は図体はでかいが、もともと体が弱く、健康だった時期がない。子供の頃から、習い事のような勢いで病院に通ってきた。20くらいの頃だが、あまりにも蕁麻疹がでるので泣きながら病院に行ったら、馴染みの医者に

「君の免疫力は7歳児くらいなんだから。いいものをちょろっと食べて、好きなことだけして暮らすのが本当は一番いい。仕事も勉強もほどほどにしなさい」

というようなことを言われて怒りマークが脳天に散ったことがある。そんなこと言われたって、私はヴィクトリア王朝時代の令嬢ではなく、21世紀の、労働者階級の人間なのである。私みたいな人間には、今のような働き方や、いる環境や、恋愛などなど濃密な人間的コミュニケーション自体、のきなみリスクが高すぎるではないか。

これからもこういう、ダメージを受けてはリカバリで破産するような生き方が続くんだったらもう輪廻ごとリレミトの巻物したい、と10秒くらい考えた私……。でも年の功で図太くなっているのか、11秒後には「いやでもそういう生き方は嫌だから違う生き方をしよう」と思えていた。

ゆったり働きながらもりもり稼ぐような人間になればいいのだ。スピリチュアル的に言えば、そういう人間になることを恐れているから私はセコセコした働き方にしがみついているのである。

もうこういう体の壊し方は二度としたくない。自分のペースでしか仕事はしたくない。

強くそう思ったし、それを実現するには、今以上に「好きなことで稼ぐ」状態を極めていかなければ、と決意した。

 

珍しく、後悔していることがひとつある。ある仕事のことだ。私はこの作品で全力を出したが、全力の次に行かなかった。

「全ての力」を出すと、時に心身は磨耗する。その磨耗は「全力出してるぜ〜」という一種の快楽をもたらす。でもその快楽は、作品の出来をほとんど左右しない。出来に影響するのは、きれいごとじみてはいてもやっぱり「誠意」「本気」だし、もっとも重要なのは「才能」の一撃なのだと思う。

「全力」は、「無難」の領土にある。それをわかっていながら、私は「全力」で手を打ってしまった。見知っている人たちへの遠慮から踏みとどまってしまった。私はそれを後悔している。力加減という価値観自体が存在しない領域に行ってこそ出てくるものがあると知っているからだ。

その後悔についてずっと考えていたら、早く次の作品を作ろうという気持ちになった。もっともっと次にいくのだ。

 

<今日の小池飯>

朝 ご飯 納豆 味噌汁 

夜 ハンバーグセット 

おやつ ポンデリング

メモ 次はハンバーグにトッピングをする。