山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

教会

悪夢を見て起床。朦朧としながら、昨日喧嘩した男にあくまで冷静に、正直に、ただし極力ネガティブなものは排除して自分の感じたことを伝える。「感情」を伝えるということを私はめったにしないのだが今回はしてみた。それが必要だと思ったからだ。「感情ほど伝わらないものはない」と某作家も言っていたし実際そうだと思う。だからこういうのは自分がすっきりするための行為でしかない。だが、何度自分のメッセージを読み返しても「まずい」と思うところはひとつもないのでこれでいいのだろう。

が、自分自身のネガティブエネルギーの渦にやられて午前中から完全にグロッキーであった。頭がガンガンして意識が定まらない。もっとうまく、素早く、的確に悲しめるようになりたいと感じる。

あまりにもひどい気持ちになったので、仕事の後に久しぶりに日曜礼拝へ。非信者の身分で行くのには毎回気がひけるが、恥じるものだとは思っていないからノコノコと出かける。

自分で思っていた以上に心はズタボロだったらしく、教会まで病気の老人のようによろよろと、意識もぼんやりしたまま歩く。段差で転びかけたり車に気づかなかったりと本当にろくでもない状態。途中でカフェのようなところに入るが、紅茶を半分も飲めずに出てしまった。

びっくりしたのは、教会に入って借り物の聖書を抱えた途端、涙がどんどん出てきたこと。3歳でカトリックの幼稚園に入園したときの、信仰心というよりは純粋に子ども時代の感覚みたいなものが多分私の中に残っていて、教会という場所がそれを刺激するんだろう(プロテスタントの教会だったけど)。

福音書の、「許し」とか「隣人を愛せ」的な内容の項を読む。侮辱に侮辱で返してはいけない、という言葉をじっくり眺める。兄弟の目のおがくずをとってやろうと思うな、まずは自分の目の中の丸太に気づけ、という話も染みた。人は常に自分の秤で量り返される。だからこそ人に品位を持って接するべきだし、許すべきだし、自分を愛さない人をも愛するべきなのだ。ちゃんとした信仰を持っていない私ですらそれは本当にそうだと思う。自分を好き(恋愛という意味ではない)になってくれる人を好きになり返すのは簡単だ。自分を愛してくれる人だけを後から愛し返すのがきっと気持ち的には一番楽だ。でもそれじゃ根本的には駄目なのだ。私はそれはするまい、と思う。もっとも、「自分を好きになってくれる人のことなら好きになります。その証拠を見せてもらえれば」と先に言う人のこともわかるから、なるべく裁かないで生きていきたいけれど。

説教に出てきたのは百人隊長の僕を癒す話。「ここでイエス様が讃えているのは彼の謙虚さではなくあくまで”信仰”です。私たちはすぐに『自分がそれに相応しいか』を考えてしまうけれど、本当に大切なのは来たものをどうとらえるか、だけなのです」という解説には納得した。少しだけ楽になって帰宅。ばりばりと仕事をする。