山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

荒川とラーメン

 昼過ぎに、荒川へ一人ピクニックに行く。川原でうろうろしていたところ、暴風と雨雲が押し寄せてきて、吹っ飛ばされそうになりながら退散した。次は一日晴れた時に行きたい。
 ラーメン屋でマイケル・ジャクソンの曲を聴いて懐かしかったので、家に帰って今度はビーチボーイズのCDを聞く。最近毎日10キロ以上歩いているので、脚がちょっと回復してきた気がする。
 
 具体的な言葉なり概念なりをこの世から抹消させたい、という考えについて。私にはない欲求だと思った。不可能だと思うから望まない、というのではなくて、私の中に、それによって解決する物事がないのだと思う。
 ひねり潰したい事象は色々あるんだけれども、言葉にすると「これをこういう"調子"で言うのをやめてほしい」とか「こういう"雰囲気"が嫌だからそうならないようにしてほしい」という曖昧モコとした注文になってしまう。
 「害」という漢字を巡る動きを見ていた時にも思ったが、一つの言葉が呪術的な力を持ち(呪術はそれを怖がる人間の存在によってあらわれる)、それを忌避する人々によって闇に葬り去られるという、そのサイクル自体がもう根本的に苦手なのだ。多分正しいことが行われているんだろうな、とは思うのだが、一つの言葉の周りにある、全てのものが穢れているとみなされていく過程を見ると、雨雲が流れてくるように自然に憂鬱になる。井沢先生なら「コトダマ信仰の弊害だ」と言うに違いないが、コトダマがあってもなくても、やっぱりそこにあるのは「穢れ」なのだと思う。
 私は、自分が常に「穢れ」の方にしかいないような気がしている。だから、「○○を撲滅せよ」という主張を聞くと、「○○」の内容に関わらず「私は撲滅される側だなあ」と感じる。私の被害者意識が強いせいかもしれないし、前世、平安時代の宮中でお貴族様のためにネズミの死骸を片付ける役職についていたせいかもしれない。
 でもその「あ、(私が)撲滅される。嫌だなあ」という感覚も、結局そこで完結してしまう。「何かを抹消したい」「撲滅したい」という考えがわかないので、サイクル自体をなくそう、ともやっぱり思えないのだ。「あー……」と2秒くらい三点リーダを頭の中で並べた後、ふっとどうでもよくなる。
 アンケートでよく

1 とてもそう思う
2 ややそう思う
3 どちらともいえない
4 やや違うと思う
5 まったく違うと思う

 というような回答欄があったりするけど、私は自分のことに関して以外は大体2〜4にする人間である。大体、一つのことに対して2、3種類の矛盾する印象を持っていたりするので、1や5なんてとても選べないのだ。私のアンケートから性格分析をすれば、思考具体性や決断力の欠如が見てとれるに違いない。でも実感としてそうなのだから仕方が無い。せいぜい、それだけを理由にはするまい、と思うだけだ。