山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

西鶴についてのメモ

 私が現代語で書き直すなら、是非「人真似は猿の行水」、を書いてみたいと思う。これを最初読んだ時、とても哀しく、怖い話だと思った。そして何故か、登場する人間たちよりも、猿の方に感情移入してしまう物語だった。解説には、なぜ猿が文学の題材として多く取り上げられるのかという理由は、猿が最も人間に近い存在であるがゆえに、逆に人間を映し出す鏡として使いやすかったからだ、というようなことが書いてある。それを読んで、非常に納得したと同時に、つまり「猿」というのは、SFで使われているところの人型ロボットとか、人工知能と同じようなものだったのだな、ということを思った。「人形」もそうだ。人間に似たものでありながら、人間のような複雑な思惑を持たず、だからこそ、人間が自己を客体化する媒体となり得る。アニメ映画監督の押井守は、このことをモチーフに「イノセンス」という映画を撮った。この物語の中では、「人形(といっても中身は機械のヒューマノイド。知能的には低い。)の自殺」という事件のことが描かれるのだが、この「人真似は猿の行水」を読んで、私はなんとなくそれも思い出した。人に近いが人ほどの知能感情を持たない(おそらく)存在の自殺という行為は、何故私たちの心にこれほど引っかかるのだろう。「自殺」は「死」の概念を持っていなければ成し得ない行為であるが故に、人間しか行わないことだとされている。それを人間以外の存在がすることで、「死」を選ぶ心、というものの哀れさがよりわかりやすくなるのだろうか。
 私だったら、この辺りをもっと掘り下げて書いてみたい。つまり、人間から見て結びつきようのない「猿」と「自殺」というものの間に、猿の、「死」に向かう気持ちというか意思というか、そういうものの存在をもっと匂わせてみたいのだ。物語中で、猿は何も語らない。語れないからこそ引き立てられる何かがあると思う。駆け落ちした男女について行った時の猿の気持ちは。ふたりに子供が生まれた時の気持ちは。いろいろ考え始めると、幾らでも話が作れそうでおもしろい。もちろん、猿をただの哀れな善良な生き物として書くだけではつまらないと思う。この物語のおもしろさは、猿が本当に善良なだけの生き物なのか、これを読むだけではわからないというところにこそあるのだから。主人の肩をもんだり、茶釜の焚き付けをしたりと、この猿はどう考えても普通の猿程度の知能ではない。私は最初、これはもしかして妖怪なんじゃないかと疑い、次に、もしかしたらこの猿というのは、重度の知的障害者・もしくは身体障害者だったのではないかとも思った。挿絵の、子供を風呂に入れている猿はどうも、毛むくじゃらな人間のようにも見える。滑稽なような禍々しいような、どうにも引っかかる感じだ。もし仮にそうだったとしたら、猿のこの一生というのは、余計謎に満ちたものとなってくる。現代語で書いたらおもしろそうだと思う。

 

「首のミステリー」「西鶴諸国話」「身を捨てて油壺」後家河内の国平岡にありし事

 まず、挿絵が怖いと思った。首だけが飛んでいて、しかも火を吐くというのはなかなかなホラーである。そして、一行目の「ひとりすぎほど、世に悲しきものはなし」という言葉になんとなくしんみりした。はっきり書くなあ、井原西鶴。そう思った。どんなに美しくても、どんなに長生きできても、一人ではさびしいばかりだ。そのことを、井原西鶴はよく知っていたんだなあと思う。西鶴の他の作品を読んでいて思ったことだけれども、西鶴は、「孤独」が一番不幸なことだと思っていたんじゃないだろうか。人間が常に孤独と戦わざるを得ない存在であることを知っていて、だからこそ、好色一代記のような、人間同士の交流(セックスも含めて)の物語を多く書いたんじゃないだろうか。
 後半の「これを見て、ひとりもふびんと言ふ人なし」というところもなかなか、ぐっさりと残酷な描写だと思う。夫に次々死なれ、こんな姿になっても尚、同情されなかった老婆に、物語の読み手としては同情してしまう。