山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

傷が治りにくい。
私の体には、22年の間につけてきた、色んな傷の痕跡が残っている。肌が人の何倍も弱い上、免疫力が極端に低いせいで、傷が治りにくいのだ。皮膚が再生するのではなく、そのまま固まってしまう感じ。まず、普通のかさぶたができない。膿むのだ。膿んで、傷ついた時よりもっと痛くなる。元よりも大きな傷になり、そしてそのまま痕になる。
流石に擦り傷レベルで痕が残ることはないんだけど、切り傷だとどんなに短くとも3,4ヵ月は痕跡が消えない。平均で半年くらいだろうか。父親も同じ体質だった。
額に、二センチほどの傷が残っている。3歳の時、新聞入れの角に倒れこんで切ったのだ。すぐに病院に連れて行かれて縫われたが、ヤブ医者だったので結構な痕が残っている。
左足首に残っている傷は、5歳の時に、セロハンテープの台の刃の部分にうっかり足を乗せてしまった時にできた傷だ。大して深く切ったわけでもないのに、みみずばれのような痕は今でも消えない。

ここ二年の間につけた傷の痕も、今確認できるだけで4、5個はある。基本的に大道具ばかりやってきたから、釘だののこぎりだの、木材だので散々怪我してきたのだ。2,3年後には消えてるかもしれないけれど、まだまだ消えそうもない。
去年の夏公演で、左足の親指の爪と肉の間を裂いた。医者でその爪をひん剥かれ、「1、2ヶ月したら新しい爪が生える」と言われた。でも結局、ちゃんとした爪が生え揃ったのは年が明けてからだった。それまでは、ギョウザのようにぐにょぐにょと歪んだ、うすっぺらい爪しか生えなかった。

私は傷が治りにくい。
何かあると、それをまるで昨日のことのように生々しく、いつまでも記憶する。忘れられない。体の傷みたいにぶくぶくと膿みただれて、元の傷よりも大きくなって、そうして痕になる。

自分のことながら、そういう執着は重くてだるい。平安の人々が、怨霊や怨念を恐れた気持ちがわかる。この質量の気持ちを、恨みという形で人から抱かれていたら、藤原四兄弟でなくても怯え死ねるというものだ。
22年間の嫌な出来事(傷ついた記憶)というのを、私はいちいち克明に覚えていて、どれかひとつでも思い出すと、残りの全部が一気に押し寄せてくる。ちょっと体調が悪かったり、欝状態だったりして精神的に参っていると、一日何回もこの波にやられることになる。

昔からそうだった。この癖、というのか脳みそのオート機能というのか――とにかく治らない。これが、本当にきついのだ。映像・音・匂いつきで、目の前を記憶が行き交う。走馬灯のように。流石に10年以上前のことともなると生々しさは減っているけども、最近の記憶はまだ威力が強い。

自分でセーブできないから、どうしようもないのだ。さっき、我慢してひとつひとつ数えてみたら、4歳の時の記憶に始まって、47,8個あった。その中でも、思い出すだけで吐きそうになるほど嫌な記憶というのが5,6個ある。五十個近くの嫌な記憶が脳みそを駆け巡り、これら「大物」が通り過ぎるたび、胃がねじれそうになる。

病んでるのかな、と思うこともある。
不眠もひどいし、一度催眠療法でも受けてみたいと思うくらいなのだ。
鬱病状態になりかけると、必死で自分で自分を隔離して、なだめすかして説得して、自分で自分のカウンセリングをしなければならない。
そういうのにも疲れる。

私は、傷が治りにくいのと同時に、傷つきやすくもある。傷つきにくくて癒えにくいとか、傷つきやすくて治りが早いとかならいいのに。
ものすごくどうでもいいようなことで簡単に奈落の底まで落ち込む。私は自分のことが割りと好きだけど、この、傷つきやすいところは嫌いでならない。傷つきやすいというのは、繊細であることとは少し違う。気持ちが弱っちいだけだ。
「タフ」というものに憧れる。

打たれ強い精神、打たれ強い肉体が欲しい。
タフになりたくて、武道もやったし、本をたくさん読んで知識も増やしてきた。昔よりは大分強くなった。でもまだ駄目だ。ちっとも皮の厚くならない、筋肉のつかない箇所が少しだけある。その辺に傷が集中している。修復不可能なくらいボロボロだ。
正直、結構限界がきているような気がする。
って言っても、気がするだけで最後のところは気力でなんとかしてしまうんだけど。

私は、傷つきやすそうには見えないらしい。
傷が癒えにくそうにも見えないらしい。
というよりも、一人で楽々なんとかできそうなひとに見えるらしい。
そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。
私は一人でなんとかできるし、傷つきやすくとも、傷が癒えにくくとも、そこからの影響を、必要以上に外部に向けることはない。影響は、常に私の心の中だけを巡っている。大まかには。
外に出していないのは「無い」のと一緒だ。仮面を作っているのはその人の肉と骨である。体の一部であるだけでなく、外に存在しているという理由から、それこそが社会におけるその人の本当の姿だ。本質が違うと考えるのは自由だが、その考えも、本人以外に対しては存在としての価値は持たない。
本当は一人でなんとかなんてしたくはない。できない、とも思っている。だけど人の手を借りなくてもなんとかなるからどうしようもないのだ。
できれば、仮面についた傷を中身に反映させたくはないんだけど。

こうしてぐじぐじ書くのも、自己補修作業のひとつには違いない。私以外にとっては意味がない行為だけど、私にとっては多分、何にも替え難い大事なことなのだ。

冬公演では、脛に二つ傷をつくり、左足の甲を捻挫した。
一ヶ月たった今でも痛みとハレが引かないので、今日整形外科に行った。何枚もレントゲンをとった。相当ひどい捻挫だったらしい。どうりで治りも遅いわけだ。まあ、凄まじい音がしたからな。「ボギッ」という、見事なまでに濁点のついた音だった。折れたかと思ったくらいだったもの。
まだ、結構痛い。時々、ものすごく痛くなる。前に体重をかけるとよくないそうで。でも歩いてる限りそれを避けるのは不可能だ。今後もしばらくは痛いだろう。折れたわけではないから、そのうち治るとは言われたけど。

私は傷が治りにくい。