山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

甘え

甘え下手だということに、非常なコンプレックスがある。
「甘える」というのは悪い意味で使われることが多いし、媚びてるみたいな印象を与える言葉だけど、私はこれは、コミュニケーションをとる上で大事なことだと思っている。
本当に気を許している相手には甘えることが可能だと思うし、絶対に甘えられない相手との間には、やはり距離があるものだと思う。
人に甘えることができない人は、人を甘えさせることもできないんじゃないかな?

きついとき、辛いとき、大変な時、自分から人に頼ったり、甘えたりすることが、私はどうしてもできない。
そういう強硬な姿勢でいること自体がとんでもないエゴであり、普通の甘えよりもっとはた迷惑な甘え状態なのだとわかっていても、できない。
そのくせ、内心は人に助けてもらいたくてたまらないんだから始末に負えない。
当然、私には包容力というものが著しく欠けている。優しくない人間だよな、と自分で思う。

東京の大学に行っている幼馴染が、一度、サークル活動の大変さで参ってしまったことがあった。その時彼女は初めて、メンバーに「もう限界です、助けてください」というSOSのメーリスを流したという。
「そしたら、皆が本当に親身に助けてくれてね。人に任せるのも大事なんだなあって実感したんだよね。私より仕事ができる子がいっぱいいることもわかったし。ミキも一度くらい『もうできない!』って誰かに甘えてみれば?」

そう言われても私には、「そうだねえ」としか言えなかった。なんで自分にそれができないのかわからない。自分が、何か致命的な欠陥を持っているような気がしてならない。
「もうダメだ!」と思う瞬間はしょっちゅうあるのに、そこでSOSを発信できない。くだらんプライドが邪魔をする。
今日こそは意地を捨てて人に甘える! 頼る! と思って挑んでも、弱った自分を前に押し出すと同時に、気持ちが萎えてしまう。
そうすると、不安で押しつぶされそうになる。自分への厳しさが足りていなかったせいなんじゃないかと思ってしまうのだ。自分を追い込んでいるつもりで、本当に限界までは追い込んでいなかったんじゃないのか、と不安になる。

人の手を煩わせることへの恐怖が強い。
人の手を煩わせて、「面倒な奴」と思われるのが嫌なのだ。
本当に親身に、本当に愛情を持って助けてもらえなかったら、その時私は、自分という存在の軽さを、それまでのいつよりも強く感じてしまうことになってしまう。
それへの恐怖が、私の中で常に他の全てを凌駕している。

最近自覚するようになったのだけども、私は、「大事にされていない自分」というのを実感するのが何より恐ろしいのだ。
母に言ったら、「ミキは昔からそうだった」と言う。
私には妹と弟がいる。長男長女というのは、幼い時に下の兄弟が生まれると、愛情を奪われたと思って怒ったりすねたり、一時的に幼児返りしてワガママになったりするものなんだそうだ。
が、私の場合、すねるようなことはなかったんだと。

「ミキはねえ~、必死で私と一緒に妹を可愛がってたんだよ。妹をうんと可愛がることで、自分もかまってほしいって気持ちをごまかしてたんだよ。すごく痛々しかった」

痛々しい人間である、というのはいまだもってよく言われる。悲しいことに。

一度人前でパニくって大泣きしてみたい。
そういうことをする女の子って多いけれども、私にはすごく難しいことだ。それをするには、理性が感情に負けなければならないけど、私はそうなったことがない。私は理性的なんかではなくて、感情的な人間のはずなんだけど。
どうすれば自分を解放できるのかがわから