山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

演技

「よく共演者を本当に好きになっちゃう俳優がいるけど、私はそういう人の方がホンモノだと思う。演技じゃなくて本当の感情だから私たちも心打たれるわけであって、スイッチで演技する人の方が私は嘘だと感じる。そういうのって絶対こっちに伝わるものだから」

 シェアハウスの同居人のこのような言葉を聞いて、ちょいと思いだしたことがあるので適当に書きます。
 芝居をやっていた四年間、私は「本当にその役になりきれば、お客さんにはその役に見える」という言葉をよく聞きました。というか言われていました。役者として。
 でも全然納得できなかったんですよね。なんでそんなこと言えるんだろう、と思っていた。
 自己認識できる範囲の「私」と「役」の結びつきって、要は単なる”思いこみ”だと思うのです、私は。「役」を感情の名前に変えてもおなじ。
 本当に役に成りきっていたら、出ハケのことを考えるのはおかしいし、出番のない時に舞台裏でじっとしていることに納得してるなんて滑稽極まりない。そういうことを考える余地を残した成り切り、というのでは「本当に成りきっている」という条件を満たさないはずなんだけど、どういうわけか、そのレベルの「成り切り」を「成りきった!」ととらえる人が多いらしい。そして後で「役になりきってたから何も覚えていない」と言ったりする。

 この「忘我」というものも、過大評価されてないかなあと思う。忘我の状態だったから真剣だった、というのはものすごく短絡的な理屈で、人間ぼけーっとしている時だって立派な忘我状態なわけですから、覚えていないほどに○○、ということを私は手放しで評価はできません。
 役そのものが上手へハケることを真実希求するような、そういう外部環境を作り出した上で求められる「成り切り」というのもありますが、そこまでいくと凄まじくレベルの高い劇団や演者の話になるのでひとまず棚に上げる。

 「本当にその役になりきれば、お客さんにはその役に見える」を安易に主張する役者の中で、「成りきったつもりになってるけどこれって自分の錯覚かもしれない」という戦慄と真剣に格闘している役者を見たことはない。一度も。そしてそれは当然のことだとも思う。
 役者の演技を「真実だ!」と思う時、「役者の演技自体」を真実だと”感じる”ことと、「この役者は真実○○の心境に陥っている」と”信じる”ことの間にはものすごく大きな隔たりがあるように思います。

 だって役者が実際何を考えていようがわかりゃしないし。「迫真の演技だ、いやこいつは演技じゃないホンモノだ!」と思ったって、本当は役者は「あーかったるい」って思っているかもしれない。そんなこと確かめようがないです。相手は私よりはるかにふてぶてしく狂っていて、私の眼力ごときじゃ絶対に見破れないような凄まじい技巧力をもってその舞台にいるのかもしれない。「いや、俺がホンモノだと感じるんだから絶対彼は演技じゃなく本当にそう思っているのだ」と思えたら楽なんですが。

 そもそも、「A=B」がそこまで素晴らしいものだろうか。「A≠B」よりも、「A=B」の方が尊いのだろうか。技巧に満ちた歌舞伎役者の演技の見事さと、目の前で泣きわめいている女の子の感情の真実っぷりとは、同じ天秤にかけて良いものだろうか。

 「真実」とは、AがBであるということ以外からは生まれないのか?
 「真実」を無条件で良いと考える心の動きはなんなのか?

 クエスチョンはいくらでも生まれる。
 「私がAと思えば、見ている人にもそれが伝わる」――それが成り立つ世界なら、傷ついた人は今の半分以下になるだろうし、娯楽作品も半分以下に減るに違いない。

 私はAと思っているけど、周りの人は私がBだと考えているようだし、私自身、周りの人の思っていることについては半分もわかりません。
 私は傷ついているし、娯楽作品を求めている。
 舞台を見に行っては、信用できない役者たちの演技に救われている。
 多分死ぬまでこれを続けるんでしょうね。