山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

ムーンリバーの難民たち

「私たちは大切なお客様を決して『難民』とは呼びません」
 そんな標語が壁に貼ってある。日本複合カフェ協会の声明文だ。当然おれには関係ない。難民と呼ばれようが呼ばれまいが、おれの日給は一円も上がらないし下がりもしないのだ。
 一日一回、ここに来る。ナイトパック九百八十円。この字面も見飽きてきた。畳ひとつ分の広さの個室で団子虫のように丸まって、アイマスクで汚い天井から目をふさぎ、パソコンの電磁波と煙草の煙にまみれながらまどろむ。眠れているのかいないのか、よくわからないまま夜が明ける。おれのような奴がいるから、この店はつぶれないんだろう。
 不思議なことだが、店を後にする時、半日後またここに来るのだということは思い出さない。ただ、家路を急ぐ人間の群れが駅のホームを埋め尽くす時間になってふと、それから行く場所がひとつしかないことに気づくのだ。
 そういう時、おれは確かに、故郷を追われた難民の気分になる。ただおれが難民とは違うのは、おれはここ一年、一応は同じ場所で寝ているということだ。
 インターネットカフェ「ルナルーム」。ださい名前。中身は、この街に腐るほどある他のネットカフェと何も変わらない。狭い個室。手垢まみれのキーボードと曇ったディスプレイ。ソファの軋む音とタイピングのささやき声。日本複合カフェ協会の声明文。
 「全国のネットカフェは二十四時間、インターネットやまんが、DVDなど様々なコンテンツの閲覧を可能にするサービスを提供し、家庭や職場に次ぐ『第三の生活空間』として多くの皆様に快適に過ごせる安らぎの場としてご利用頂いております。」
 ぴんとこない言葉だ。だっておれには、第一の生活空間も、第二の生活空間もないんだからな。
 まともに毎日家に帰り、学校に通い、アルバイトしていた時のことが、最近は妙にぼんやりとしか思い出せなくなっている。地元を離れた今では、昔の知り合いと会うこともない。派遣会社からはID番号で呼ばれ、派遣先ではおれのことなど一瞬で忘れ去るに違いない人間達から記号としての名前を呼ばれる。
 その方がいいのかもしれないとさえ思う。
 だから、いきなり声をかけられた時、おれは自分の名前を呼ばれたのだということを一瞬理解できなかった。
 それは、いつもの個室で出前のうどんをすすり、なんとなくネットをした後、シャワールームへ行こうとした途中の出来事だった。
「遠藤君でしょ?」
 振り返ると、背の低い、やせっぽっちの女が薄暗い廊下に立っておれをじっと見ていた。金魚みたいにぽっかりと丸い目玉、化粧っけのない白い顔、短い髪。灰色のパーカーはどう見てもユニクロ。その物言いたげな目つきには見覚えがあった。
「佐久間?」
 中学三年の時のクラスメイトだ。親しくはなかった。下の名前も覚えていない。いつも教室の隅で本を読んでいるような奴だった。そしておれは、教室の真ん中に陣取って、そういう奴らの存在を無視して笑い転げる権利を持っていたのだ。あの頃は。
「ああ、良かった、覚えてて。六年……七年ぶりくらい?」
 佐久間の視線は、おれがぶらさげているバスタオルに注がれている。仕事帰りに終電を逃した。友達と遊んだ帰りなんだ。そんな言い訳をするタイミングはすっかり逃していた。佐久間の瞳はすでに、俺の体に染み付いた生ぬるい「慣れ」の傷跡を見つけてしまっていたのだから。
「お前、こんなとこで何してんの?」
 佐久間が何も言わないので、おれは仕方なく聞いた。佐久間は、パーカーの襟をかきむしりながら、ぼそぼそと言った。
「バイト帰りによく泊まるんだ。あ、この店は初めて来たんだけど。安いね、ここ。私月収安いから助かる」
「よく泊まる?」
 思わず聞き返した瞬間、佐久間は、片頬だけで気まずそうに笑った。笑ったのだろう。一見、顔をしかめたようにしか見えなかったけど。その笑顔を見た瞬間、おれは、その場でもんどりうちたいような気分になった。何だその顔は。同類だと思われたのか。冗談じゃない。小汚いネットカフェの廊下で、名前と顔を知っているだけの奴に、どうしてこんな顔をされなきゃいけないんだ?
「お互い大変だな。んじゃ」
 何も話すことなどなかった。おれ達は、社会の最底辺で再会してしまったただの元クラスメイトに過ぎない。全国のフリーターの数は二百万人、ネットカフェ難民は五千人強。その中にたまたま知り合いがいただけの話だ。首の皮一枚をつなげる為に這いずり回り、誰かには難民と呼ばれ、誰かには大切なお客様と呼ばれ、親身に名前を呼ばれることはないまま静かに磨り減っていき、体を丸めて眠ることだけに慣れていく。幸不幸を考えることも忘れていく。そんな中でどうやったら、さして親しくもなかった顔見知りとの再会を喜べるだろう。
 だが、おれが行こうとしたその瞬間、佐久間は妙にきっぱりとした声で言った。
「外行こう」
「何だって?」
「外に行こうよ、一緒に」
 何をしに? どうしてお前と? これからおれは少しでも多く眠っておきたいのに。
 言おうと思えば言えたはずだった。でも言えなかったのは、佐久間が案外、緊張した顔をしていたからだ。その顔を見たとたん、何故かおれは急に恥ずかしくなってしまったのだ。惨めな気持ちといってもいいくらいだった。おれがここで佐久間を突っぱねようが、そうしまいが、世界にはほこりが飛んだ程の影響も与えないのだという事実。そして、それなのにこんな緊張した顔をしている佐久間の存在が、何か無性に虚しく、哀しかった。おれ達はなんてつまらない生き物なんだろう。
 佐久間が、シャンプーを持っていることに気づく。詰め替え用の袋の口が輪ゴムでしばってある。それを見ながら、おれは言った。
「いいよ」
 結局おれは、ナイトパックに足した三時間いただけで、「ルナルーム」を出ることになってしまった。百円、五百円の出費にも気を遣いながら生きているおれにとっては、とんでもないことのはずだった。
「お前いいの、あと何時間も残ってたんじゃない」
「ああ、うん、まあね。でもいいんだ。どうせいつもあんまりよく眠れないし。遠藤君は? よかったの?」
「いいよ別に」
 眠れないのは同じだった。あそこで安眠できる程神経の太い奴だったら、もっと世の中上手く渡っていけそうな気がする。
 夜中の三時過ぎ。月が出ている。パーカーの佐久間はいいが、おれはシャツ一枚なので少し寒い。そろそろ夜は上着が必要になるな、とおれは思った。街は静まり返っている。都心だったらいざ知らず、こんな、住宅街に毛が生えたような場所の夜を賑わすものなんかありゃしない。頭の悪そうな不良が数人、時々うろうろしているくらいだ。でも、つるむ相手もいないおれは、その不良達より更に低俗な存在なのだった。
 ざらついたアスファルトの上を、おれ達は黙々と歩いた。おれも佐久間も、大きなリュックを背負っている。その中にあるものが、おれ達の全財産だった。着替え。歯ブラシ。携帯電話。充電器。あと必要なものが、おれには思い浮かばない。いつから、こんなに少しの物だけで生きていけるようになったんだろう。中学のときは、もっともっと、たくさんの物が必要だった。
「遠藤君のこと考えてたら目の前にいたから、本当びっくりした」
「は? 何だって?」
 こいつはいつも何でこんなに唐突なものの言い方をするんだろう。中学の時もそうだっただろうか。思い出そうとしたが、おれの記憶にあるのは、痩せた背中を丸めて本を読む姿だけだった。
「あの店に入ってさ、遠藤君のこと思い出したんだよ。そしたら本当にいたからびっくりした」
 驚いた。なんでおれのことなんか思い出すんだ?
「……なんで? おれら中学のとき話したこと全然ないじゃん」
 あの頃実は好きでした、なんて言われたら脱兎のごとくそこから走り去るところだったが、佐久間が口にしたのは意外な言葉だった。
「いや、店の名前を見たときにね。ルナって月でしょ。それで、音楽の授業を思い出して」
 ちっともわからない。なんで月で音楽の授業を思い出すんだ。
「そういえば、遠藤君はムーンリバーを知ってたなあって」
「ムーン、何?」
ムーンリバー
 ムーンリバーだったら知ってる。「ティファニーで朝食を」のテーマ曲だ。オードリー・ヘップバーンの狭い音域に合わせて作られた曲だ。良い曲だと思う。だけどそれがおれと何の関係があるんだろう。
「覚えてない? 昔音楽の授業で好きな作曲家を聞かれて、私がヘンリー・マンシーニの名前をあげた時のこと」
「……何か言ったっけおれ」
「私が『ヘンリー・マンシーニが好きです』って言ったら、遠藤君こう言ったじゃん。『おれムーンリバーしか知らねー』って」
「……」
 そういえばそんなことを言ったかもしれない。その頃のおれは、授業中好き勝手に喋り、またそれが周りにも期待されるタイプの人間だった。その発言も、ウケ狙いでしたものだ。得意になって言ったのだ。たまたま親父がオードリー・ヘップバーンのファンだったから知っていた知識だった。言った瞬間の、周りの反応を覚えている。隣の席の山田が「すげえな」と言ったことも。先生が特別好意的な笑顔を向けてくれたことも。でも、佐久間の反応だけは覚えていなかった。まったく。
 おれはあの頃と何も変わっていなかった。つまらないことで得意になり、失敗し、元いた位置より低いところにおさまる。その繰り返し。中学の時は成績も良かった。県内指折りの進学校に進んだ。そこですぐに落ちこぼれた。浪人し、上京して予備校に通い、そしてまた脱落した。あとはずるずるとフリーターになり、親に見捨てられた。俺に残されたのは、派遣会社のID番号と、携帯電話だけだった。社会のことを何も知らず、ネットカフェにある漫画以外の本を読まないから教養もない。
 些細なことで優越感を感じていられたあの頃が懐かしかった。ヘンリー・マンシーニの作った曲を知っていることが何だろう。それが、俺の役に立ったことがあるだろうか。
「今でもそれしか知らねえよ」
 ぼそっと言うと、佐久間は唇をひんまげてこっちを見た。
「私はそれが嬉しかった」
「……何が?」
「遠藤君が、私の言葉に反応してくれたことが。遠藤君がヘンリー・マンシーニの作った曲を知っていたことが。私もムーンリバーが好きだから」
 嬉しかったんだよ。そう言って、佐久間はやっと普通に笑った。八重歯がとがっていた。
「大体皆、ヘンリー・マンシーニなんて言っても知らないからね。遠藤君はすごいよ」
 皮肉ではなさそうだったが、おれはふんと鼻を鳴らした。
ネットカフェ難民が物知りでも、全然意味ないよな」
 佐久間は立ち止まり、じっとおれを見た。
「物知りである必要はないかもしれないけどさ」
 金魚みたいな黒くて丸い目が、夜の中に浮かんでいる。
「私は忘れないよ。あれから私、遠藤君と話したいって思ってた。私の好きなものを知っていた遠藤君と、話してみたかった」
 おれは、佐久間のパーカーの紐を眺めながら言った。胸に何かがつまっているような声が出た。
「話せたじゃん」
 佐久間は笑った。
「そうだね」

 それからおれ達はただなんとなく歩いた。意味も目的もない、たわいもない会話を続けながら。今まで行った派遣先で、どこが一番気に食わなかったか。ネットカフェではいつも何の漫画を手に取るのか……。
 どれだけ言葉を重ねても、夜の街の中では、何一つ残らない気がした。おれ達は友達にはなれないだろう。これから頻繁に会うこともないに違いだろう。かつてまったく違う人種のようにふるまっていたおれ達は、いつの間にかまったく同じ種類の人間になっていた。いや、人間にそもそも種類などないということに、うっかり気づいてしまったのだ。
 おれ達は互いに同じことに気づき、同じ事を恥じていた。それを悟りあっている状況というのは、絶望的な程儚い。何も残さないようにしよう、と、二人ともが思っているからだ。その思いをわかりあった上で、笑うからだ。
 
 始発の出る時間になって、佐久間は「仕事があるから」と駅へ去った。連絡先の交換はしなかった。
 おれは再び「ルナルーム」に行った。帰った、とは思わないし、思いたくもない。
 個室に入って、おれはまずパソコンの電源を入れた。アイマスクではなくヘッドホンを装着する。動画や音楽を配信しているサイトに飛び、ムーンリバーをダウンロードした。

  二人は岸を離れ、世界を見るために漂う漂流者。
  見るべき世界はたくさんあるわ。
  二人は同じ”虹の端っこ”を追いかけているの。
  それは、あのカーブを曲がったあたりで待っているかもしれない。
  幼馴染みの冒険仲間、ムーン・リバーと私。
 
 聞きながらおれは少しだけ泣いた。
 汚い天井。ボロいパソコン。ジャンクフードと煙草の匂い。人間の身じろぎする音、咳き込む音。おれの財産が全部詰まったリュック。日本複合カフェの声明文。
 「私たちは大切なお客様を決して『難民』とは呼びません」
 やっと痛感したのだった。おれは難民じゃない。虹の端っこを追いかける漂流者でもない。無知で馬鹿で自意識過剰なただの人間だ。

 ムーンリバー
 作曲したのは、ヘンリーマンシーニ


<了>