山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

春一番とウェルカム・トゥ・リアルライフ

今日は夕方まで気持ちが暗かった。でも気候はすばらしく、コート無しで河原を歩けた。全国で春一番吹く。そして低気圧。気分が下がった要因は多分これ。

朝9時目覚め。目が覚めた瞬間から鬱っぽく、原稿のことを考えて心拍数も上がる。「大丈夫大丈夫大丈夫」と30回くらい唱えてから起床する。パスタ炒めて食べて、進めるしか道のない原稿に着手。ゲロりそう。

昼、ワイドナショーという番組を見る。乙武洋匡氏が清原選手の取材をしたときのことを語っていた。あるとき、「君は、自分の体のことでワーッてなったり、考え込んじゃったりすることはないの」という質問をされたらしい。「清原選手は体格にも才能にも恵まれていたし周りからもそう見られていたけど、何かしら自意識とのギャップの中で苦しんでいて、それについて考えるヒントを自分の話から得ようとしていたのでは。清原選手が薬で捕まった時、驚いたけどどこか 納得できるところもあり悲しくなった」という内容のコメントだった。胸の痛くなる話だ。

「五体満足強者」に見える清原だが、孤独と無力感にさいなまれる「弱い」部分も当然あったはずだ。それを救ってあげられる人がいなかったからこそ、覚せい剤なんかに手を出したのだ。そういう意味では、乙武氏に問いかけたときの清原は、乙武氏よりはるかに弱者だったのかもしれない。

夕方、河原の散歩。みんな薄着になっていた。春の服がほしくなる。歩きながらネガティブなことばかり考え半泣きに。でも妄執的に繰り返している思考を手繰った結果、一つまた理解。私はある種の「小さな」不満を感じた後に、猛烈に悲観的なことを考える癖があるのだ。妄想する場面はいつも同じで、簡単に言えばこっぴどい目に合わされて泣く、というもの。これは確実に、「とてつもなくひどい目に合わされない限り不平不満を言ってはいけない」という私の心理的抑圧が関係している。逆に言えば「ものすごく傷つけられれば抗議する正当な言い訳ができる」と考えているわけで、やっぱり処罰願望の一種なんだろうな。自己改革の課題。

そのあといつものミスドに入り、ねばりにねばる。割と成果あり。この成果によって気分が浮上。帰宅後もせっせと原稿をする。夢中になって晩飯は食べ忘れた。2時頃まで書き、文字カウントをしたところ約39000字。全体の4割くらいはきていた。来週中に8割までは持っていけるだろう。2時から風呂に入って久々に小説を読む。鏡に映る自分の顔がじわじわこけていっているのがわかる。

電話で「タイムマシンで過去に戻れたら」という話になる。私は、暗い性格なわりに前向きなので、人生においてやりなおしたいことはとくにない。逆に「絶対巻き戻さなきゃいけないとしたらどうするか」を考えてみた。父が死ぬ前に戻って死なないように画策するか(どうやっても死んだ気がする)。初恋の男の子と知り合った頃に戻ってもっと高度な駆け引きをするか(これもどうやってもうまくいかない気がする)。いろいろ考えてみたけど、「高一に戻って、剣道部と生徒会に入らずに三年間しっかり勉強しなおしたい」という結論になってしまった。地味。

でもやっぱり、今更15歳からやり直すなんていやだな。めんどくさい。人間、どんなルートを歩もうが、多少の登場人物の入れ替えや所持アイテムの増減はあるにせよ、苦しみと欠落と渇望の総量は絶対に変わらないようにできていると思うのだ。それだったら「今」の方が気楽でいい。私は今の自分が過去の自分の中で一番好きだし、それは過去のいろんな辛い経験なくしては得られないものだった。ろくでもない人生だけど、その時々のベストは尽くせてきた。選択肢の数は少なかったし、これからも少ないかもしれないけど、私は自分の「自由」を疑わない。もっとも、やりなおしたいくらい幸福を予感させる(あるいは大きな不幸を回避できる)、劇的なポイントが含まれた思い出を持つ人生もいいものなんだろうな、と思う。私の人生はとにかく地味なのだ。