山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

おいしいところの追体験

8時半起床。今日も面白い夢を見たけど完全に忘れた。よく晴れていて寒い。今日は目の前の建物の屋上で作業員があれこれしており、適当な格好で窓に近づくと危険、という状態だった。

トーストを一枚かじって、10時頃からずっとずっと原稿。今日のBGMはショパンピアノソナタ。15時半頃に一旦休憩のために外に出て、an・anの占いを立ち読みしてからミスドに入り、いつもよりたくさん注文しつつ3時間近くねばる。今日はなぜかジジババの団体やママ友会など、大人数客が多くて賑やかだった。それら全てを無視して延々タイピング。ハニーチュロは私の子供の頃の二分の一くらいの食べ物になってしまったと思う。

帰宅後も原稿。20時頃からさすがに脳みそがカラカラになり、バラエティ番組で「低温寄せなべの作り方」をぼーっと見ながら適当に茹でたパスタと野菜炒めの合体品を食べる。でも食べ終わったあとはまた仕事した。なんだか今日はやたらと頑張れた一日だった。

先日、人と日記文学についての話をした。私は数多ある本のジャンルの中でも、日記と書簡集が特に好きだ。時に思想書以上の示唆を含んでいる。

日記を読むのは、そのひとの人生の2番目においしいところの追体験をするような行為だと思う(1番目はシェアできない。そして2番目の定義はさておく)。エッセイ本としてまとまったものより、煩雑(に見える)な日記本とか書簡集の方がうまみに満ちている。そして旅行記よりむしろ日常ものの方が好き。日常生活こそが旅なのだ。このnoteもそういう感じで書いていけたらいいんだけど。私の人生においしいところがあるとしたら、なるべくそこをシェアしていきたい。

高校2年の時にテキストサイトを立ち上げて、2年間ずっと日記を書いていた。なんだかやたらと人気が出て、いくつかのランキングではずっと3〜1位だった。歳の離れた大人からもけっこう感想をもらっていた覚えがある。サイトをやめてmixiに移ってからも、しばらくは「日記サイト」の体で更新してたから、日記を読みにだけ来てくれる人がちょこちょこいた。今考えるとありがたいことである。そのとき読んでくれていた人の一部は、今でも私の作品を読んでくれている。

しんどいこともあった。基本的に笑える系の日記を目指していたので、ときどきシリアスなことを書くと「今日は暗い」とクレームがきたし、WEB日記に全てを書くわけはないのに(それはこの日記も同じ)それが全てだと頭から思い込んでいる人がいたり、という具合。当時はまだ物書きスキルが低かったので、「多くの人は適当にしか読まない」という事実とまだ向き合えなかったのだ。

考えてみれば、16のときからずーっと、絶え間なく世間に向けてものを書いている。アウトプットを「書籍」という形にできたのが26のとき。36のときには何ができてるだろうなあ。いい加減小説を出したいもんだ。それまではこの日記もやめない。