山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

戦車みたいな人

 昼まで気持ちよく寝ていたら、Yさんから「今日B勤になってるけど」というメールがきて肝が冷えた。Xさんがシフトの変更を入れていなかったためらしい。ゆっくり食事をしてから外へ出る。**にようやく同人誌代を振り込んだ。肩の荷がおりた気持ち。
 栄に行き、愛知芸術センターライブラリーへ。あいているのかどうか不安だったが、やっていた。ライブラリーに入るのは初めて。読みたい本だらけで興奮で死にそうになった。ここへ来たのは、昨日佐藤久三郎の「和の抽象」を読んで感じた疑問の、答えの手がかりを探すため。プロテスタントの宗派のひとつであるカルヴァン派は、「感覚は妄想」「知性は感覚によって惑わされる」と考えたらしい。プロテスタントが華美なものを嫌ったのはそのせいでもあるわけだが、しかし「若草物語」のエイミー(マーチ家はピューリタンだ)は聖母の絵を自分の祠に飾ったし、プロテスタント系の画家も、レンブラントなど数多くいる。彼らにとって、絵を見る・描く時に発生する「感覚」は、その信仰の中でどういう位置づけだったのだろう……ということが私は知りたかった、のだがそう都合よくわかりやすい本はない。昨日は美術出版社の「西洋美術史」を読んだが、プロテスタントカトリックの混合であるオランダで、美術が盛んになったというくだりがよくわからなかった。それでレンブラントのことも知ったので、ライブラリーではレンブラントの本を中心に探した。いくつか読んでわかったのは、オランダには信条主義を嫌う国風(?)があり、それによって新教派の厳しさも多少(この辺曖昧だ。歴史系の本を調べてみなければなるまい)緩やかになっていったらしい、ということ。だから多少絵を描いても、「カルヴァン派の隣人からにらまれる」ようなことにはならなかった。あと、やはり「宗教画」というのは特別な絵なのだな、ということだ。肖像画や挿し絵というのは、何か根本的に、感覚的に違うものなのだ。いや、そのことは昔から知っているが、そこに「感覚」がどう織り込まれているのか、そこが私にはイメージできていない。時間がなかったので、「レンブラントの目」という分厚い本と、「レンブラントの聖書」という本を借りた。人の情念の歴史を知るには手間がいる。レンブラントの絵は、子供の絵がわりとかわいい、ということくらいしか知らなかったがなかなか味わいのある絵だ。ライブラリーで利用者カードを作成。これからはもっと頻繁に来よう。
 バイトはいつも通りに。荷物がなかったので、ひたすらDさんの指示で事務所のストック整頓をした。明後日から荷物がくる。覚悟しなければ。
 バイトが終わってから、サイゼリヤでAちゃんと会う。いつも通りの会話。BL漫画を二冊と、あとグロい漫画を見せてもらった。グレンナオミの漫画はものすごくぶっとんでいた。エロい気持ちになるどころじゃない。あれは感覚が何か麻痺しそうだ。
 今回興味深かったのは、ストリップの話と、あと親戚づきあいの話。ストリッパーは、AV女優との掛け持ちがほとんどだそうだ。Aちゃんは、今おっかけているストリッパーをAVで知ったらしい。私はAV女優でいいと思う人なんかいない。もっと演技や顔に注目してみるべきなんだろうか。あえぎ声がちょっとでもわざとらしいだけで萎えてしまうというのは鑑賞態度としてよくないのだろうか。新宿のなんとかいう箱はキャパ50くらいで、Gpit程度の広さらしい。そんな近くで裸が舞うのが見られるなんて、すごい。是非とも見に行きたい。「みきちゃんなら、バリバリの記者に見えると思う」と言われたが、確かにそんな態度で見てしまいそうだ。きっと、Aちゃんのように純粋に見ることはできなくて、分析的な視線をなげてしまうに違いない。ストリッパーは同性の客を苦手がることが結構あるらしいが、私なんかはまさに苦手がられる女客なのではないかと思ってしまう。
 親戚づきあいの話は色々と「謎がとけた」感あり。
 1時半に解散。私が前に**さんに「戦車みたいな人」と言われた話をしたらえらくウケていた。「みきちゃんは強そうに見えるよね」と言われる。そうなんだろうな。別にそんなに強くもないんだけど。と思っているのも誰も皆一緒か。