山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

山羊座の文章

 バーゲン狙いの人間たちで、電車も駅も埋まっていた。HMVの前がロリータとゴスロリとパンクの人間で埋まっているのはすごい眺めだった。不況不況というが、福袋やらセール品やら買える輩がこれだけいれば十分じゃないか。私にはそんな金はない。とかいいつつ本代で先月諭吉が飛んでいる。
 バイトは昼過ぎから混んだ。レジに出ずっぱりで、棚が気になって仕方がない。休憩中に、店長に二月いっぱいでやめさせてくれと言った。反応があっさりしすぎていて少々寂しい。まあこんなものか。私はAさんにちゃんと挨拶して辞められればそれでいい。
 その休憩で、洲之内徹「帰りたい風景」を読了。まったくもっておもしろい。文章のどれもこれもがしっくりくる。山羊の文章だ。羊と山羊の話は頭に残っている。さくら草の絵も。こういう風にじっくりと正直な文章を書きたい。
 帰りにジャスコで母と買い物。パン屋にH君がいた気がする。うどんを食べながらXさんの話などする。「殺しても足りない人間」「分析をしているような悪口をいう人」。もう三回も同じ表現をしているが、まさに彼から受けた印象そのものだから、何度聞いても笑える。ZとTちゃんは合わないと母は言う。Zは影が薄いから、Tちゃんには物足りなくなると。母の言うことはいちいちなるほどという感じで困る。私にとって影響が大きすぎるのだ。本人はわかっていないが。
 洲之内の話をして、「山羊座の文章は、最初から老成していて、最後まで幼稚なのかもしれない」と言ったところ「それいいじゃん」と誉められる。自分の思いつきではあるけれど、三島由紀夫にしろ、白洲正子にしろ、村上春樹にしろ、洲之内徹にしろ、みんなそう見える。最初から完成していて、それが老いでもあるし幼さでもある。そこが悲しくて、惹かれる。母は「山羊座の人って、自分では理屈を通してるつもりなんだけど、はたから見るとものすごく自分勝手なんだよねえ。決めるのは全て自分だ、みたいな」と言う。それもその通りだと思う。わかってるんだけど、などと言うところがまた図々しいんだが、本心は自分が一番正しいと思っているのでどうしようもない。牧山桂子の「母の、思いこんだことをさも事実のように書く性分」という文章がいまだ小魚の骨のように抜けないのは、私にも同じ性分があることを自覚しているからだが、これはなんだか、気をつけてもしょうがないことのように思われるのだ。洲之内も同じことをやらかしている。私もきっとそういう人間なのだ。並べることがおこがましとは思わない。私はそういう悪癖において、彼らと同類だ。なるべく正直に書くことしか私にできることはない。正直も思いこみの中にしかない。それが山羊の悲劇だろうか。なんてまあ、星座を盲信するつもりはないんだけど。
 母が白髪染めを買わなきゃいけないというので、十時に二人で家を出る。「ワンピース」について議論。空島編については、「ロジックが成立していない。バカじゃん」と母ばっさり。また、チョッパーの話について「その医者が、贖罪として毒を飲むならあり」。エースについては、「人間はそういう愚かなことで命を落とすのだ、っていう視線があれば許される」とのこと。全て同感。
 結局TSUTAYAスギ薬局ももう閉まっていたので、結局べりーぐっどで買い物をし、サンクスで白髪染めを買う。私は「ファミ通」を買った。帰宅してから読んだがちっとも面白そうなソフトがない。テイルズの新作が完全にオンラインゲームのようで悲しくなった。99年なんて、出るゲームのほとんどが欲しかったのに。美術に関心を持つようになってから、同時にゲームへの関心が蘇ってきた。