山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

そしてまた、どこかの劇場で

 商店街の活気がちょうど途切れる辺りに、七ツ寺共同スタジオはある。狭い道に面し、民家に囲まれたその建物は一見、うら寂しい二階建ての倉庫にしか見えない。みゆきが聞いた話では、ここはもともと実際に倉庫だったのだそうだ。二階の窓には、黄ばんだ紙の切り抜きで「七ツ寺共同スタジオ」の文字が張り巡らされている。が、その切抜きが、汚れたガラスにあまりにもぴったり張り付いているせいで、誰もそこには目を留めない。
――いい加減、あれも新しくすればいいのに――
 みゆきは、首をぐいとあげて、コーラの残りを飲み干した。窓が視界の隅から消え、喉の奥で甘みが弾ける。ねじれた電線の向こうには、夏より青をひとはけ増した、九月の空が広がっていた。昼休憩の時間は、あと三十分程残っている。
 七ツ寺共同スタジオ。名古屋の演劇の拠点として、三十五年もの間、ここ大須の商店街から少し外れた道にひっそりと、まるで見つけられなくてもいいというように存在し続ける小さな劇場である。演劇人か、大須の人間でなければまずこの名前は知らない。それ以外の人に対して、この建物が自分を主張することはほとんどなかった。
 みゆきが初めてこの小屋に来たのは、大学に入ったばかりの年の夏のことだ。知り合いが役者として出演している公演を観に来たのだが、場所がわからず、大須中を歩き回った。劇場と言われてまっさきに思い浮かぶのは中日劇場愛知厚生年金会館であり、まさかこんなぼろぼろの、民家と見間違えるような建物だとは思わなかったのである。
 そして見つけた瞬間、とっさに「お化け屋敷だ」と思った。夜、電灯の光に照らされたそこは、よくは知らないが昔の縁日にあった見世物小屋とかサーカスとか――そういった、禍々しいものを連想させる怪しい空気を放っていたのである。中は、外見から想像するよりも広い。コンクリートむき出しのロビー、汚れただれたトイレ、客席にしかれたよれよれの座布団。黒く塗りこめられた劇場内に沈む、埃と木材と塗料と、そして人の肌のものがなしい匂い――。
 その時見た芝居に心奪われ、今みゆきはここにいる。
 劇団ポイズンセール、というのが、みゆきの属する劇団の名前だった。名古屋のいくつかの大学の学生が集まって作った劇団で、一年に二、三回公演を打っている。みゆきは、主に大道具スタッフとして活動していた。かなづちのことを「ナグリ」と呼ぶことを、みゆきは演劇を始めてから初めて知った。気づけばそれから3年も経っていた。
「ひえー、みゆきったらまたコーラ飲んでる! 小屋入りしてから何本目?」
 振り向くと、制作の千鶴が、吉野家の牛丼を二つ抱えてやってくるところだった。みゆきが外にいるのを見て、二階の楽屋からわざわざ持ってきてくれたのだろう。
「これがわたしのガソリンなんだもん。まだ3本目だよ。それより、吉牛の方がはるかに飽きるわー」
 みゆきは、ずっしりと暖かいスチロール容器を受け取りながらぼやいた。容器のふたには、マジックペンで大きく「みゆきの☆」と書いてある。
 小屋入りの最中の食事は、制作スタッフが大体一括で用意することになっている。七ツ寺共同スタジオの近くにある吉野家は、最も活用される店のひとつだった。
「じゃあ、マックのハンバーガーにするぅ? それともマルケーのおにぎり?」
「あーもうやだやだ、そればっか。小屋入りの時ってほんと肌荒れるんだよね!」
 千鶴はそれを聞いて笑いながら、入り口の隣に据えられたベンチに腰を下ろした。後ろの壁には掲示板が設置されていて、そこにはいつも、ありとあらゆる劇団の公演チラシが貼り付けられている。演劇人口的には東京の十分の一と言われている名古屋だが、それでも毎週何かの芝居はやっている。観に行く人間も、減ってはいても絶えてはいない。
「そういえばみゆきって、小屋入り中もしっかり化粧してるよね。すっぴんでいればいいのにぃ。どうせ汚れちゃうじゃない」
 千鶴が、割り箸を開きながら言う。みゆきは、千鶴の白い肌をじっと見た。千鶴はかわいい。マスカラを塗らなくてもまつげが長く、チークを塗らなくても頬に赤みがさしている。
 みゆきは、コーラの缶を軽くきしませた。
「わたしのすっぴんなんか見せたら、皆の士気がダダ下がりだよ」
「またそんなこと言ってえ」
 千鶴は、箸をきれいに持つと、楽しそうに牛丼を食べ始めた。みゆきは、缶と牛丼の容器を持ったまま、なんとなくぼんやり千鶴を眺めた。缶を持った手の指で目の端をかくと、溶けたマスカラとアイシャドウの、灰色にきらめく粉がその爪についた。
「みゆき、そういえば就活はどうなの。こないだどっかの大道具会社受けたって言ってなかったっけ?」
 千鶴が、ふと顔を上げて言った。みゆきは、千鶴の横に牛丼を置くと、空の缶を握ったまま、ふらりと電燈に身をもたせかけた。
「ああ、うん、落ちたよ。このままだとニートだね」
 千鶴は気の毒そうな顔をしたが、すぐに真面目な表情になった。
「すごいよねぇ、みゆきは。大学出てからも、演劇に関わろうとしてるんだもん。みゆきはいっつも、どの公演でも真剣だったもんね。そこが駄目でもさぁ、みゆきなら絶対どっか受かるよ」
 カチカチカチ。缶をきしませながら、みゆきは空を仰ぐ。
 大道具関係の会社を受けているのは、他に何もしてこなかったからだ。教職も学芸員も、二年の時に諦めてしまった。冬の公演に打ち込みすぎたからだ。かといって、演劇の方で大きな成果を残してきたわけではない。やってきたのは大道具のスタッフのみで、役者として舞台に立ったこともない。選ばれるわけがないという諦めから、立候補したこともなかった。「この役はお前にしか出来ないから」と、周りの人間に推されることを妄想したことはあったが、その通りになることはついになかった。年齢が上がったからチーフは任されるようになったが、大道具に殊更才能があるわけでもない。演劇から足を洗うべきだと思ったことは何度もあった。でもそれすら出来ず、今日までナグリを振るい続けてきてしまっている。
 このまま就職が決まらず、ずるずるとフリーターになり、演劇界にごまんといる、「演劇をやる為にアルバイトで食いつなぐ人間」になってしまうのかと思うと気分は重い。そしてみゆきは実際、そこまでするほど演劇にのめりこんでいる訳でもないのだった。初めて観た公演はすばらしかった。だが、作り手に回った時、同じような感動は得られなくなっていた。今のところ演劇以外に何もないから、しがみついてみているだけかもしれないと思うことがある。
「まあ、頑張るよ」
「うん、頑張ってね」
 女子大の栄養学科に在籍している千鶴は、小さな食品会社に就職が決まっている。ねたみそねみは醜い、とわかっていても、みゆきの心にはぎゅっと皺がよった。
 牛肉をほお張る千鶴の細いあごを見ながら、みゆきは殊更強く、缶を握りしめた。

 最後の釘を打ち付け終わったその瞬間に、みゆきは叫んだ。
「お待たせしてごめん、大道具アップです!」
 お疲れー、という声が四方八方から飛ぶ。腕時計で時間を確認すると、針は五時をさしていた。約一時間遅れのアップだ。今回の大道具は床にびっしりと細工をほどこす必要があり、床を占領する為、他の部署と平行で作業をすることができなかった。なので照明の灯体吊りが終了した後、大道具作業専用の時間を新たにとっていてもらっていたのだが、これが予想以上に手間取ったのである。後輩の大道具スタッフ達が、大きな息をつく。みゆきも、曲げっぱなしだった腰を大きく伸ばした。
「よし、予定通り絵作り入るぞ! 大道具は休め! 役者はすぐ舞台に上がれ!」
 声を張り上げているのは、舞台監督の浩二だ。がっちりと太い腕を振り回しながら、役者を舞台の上に追いやっていく。
 わらわらと舞台の上にかけあがる役者達とすれ違いながら、みゆきは、劇場の中二階にあるオペレータールームを見上げた。壁に空いた窓から、オペレーター達の頭がのぞいている。音響オペの亮と照明オペの由利子、そして、照明チーフの望月周平の三人の頭だ。周平がかけている薄い眼鏡の、銀色のフレームが見える。みゆきは、その銀色をくいいるように見つめた。
「モッチー、照明の準備できてるよな!」
 オペルームを振り仰ぎ、大塚が叫ぶ。周平は窓から顔を出すと、いつものように陽気に答えた。
「こちらモッチー、モチロンです」
 周平の声は、柔らかくてハスキーだ。良い声だが、声量がないので役者には向かない。彼もみゆきと同じく、スタッフ専門としてずっと一つの部署にとどまっている人間だった。
「じゃあ絵作り行きます、お願いします!」
 楽屋から降りてきた演出の恒川が、客席の真ん中に陣取る。
 みゆきは、周平から目を離し、客席の端に座ると、舞台を見つめた。これがみゆきの好きな瞬間だった。
「客電落とします!」
 由利子の、フォークのように鋭い声が降りてきて、辺りが漆黒の闇に包まれた。劇場の中に作られる闇は、現実世界に訪れるどの夜よりも黒々と暗い。
「客入れのあかりつけます」
 薄青い照明の中に、みゆきの手から離れた舞台が浮かび上がる。作っているときはベニヤの塊に過ぎなかった装置達が、幻想的な陰影の中にしっとりと息づいている。夢の宮殿が、果てしない砂漠が、荒ぶる嵐の草原が、現実の紗幕の向こうから刺す照明によって、おぼろげな輪郭を持ち始める。役者達の作り出す影が床を撫で回し、舞台の上を一つの世界にこね上げていく。舞台の上に生命が宿るその光景を見つめることは、例えるなら揺れる炎を見つめる時のような安らぎと興奮に満ちている。この光景を、がらんとした客席から眺める瞬間が、みゆきにとっての至福の時だった。この光景を見るたびに、演劇をやっていて良かったと心から思う。
「お、なかなか良い感じじゃない」
 その声に、背中全体が反応する。振り向くと、すぐ後ろに周平が立っていた。薄暗い劇場の中だと、どんなに近くにいても緊張しないのが自分でも不思議だった。真っ黒な壁に囲まれたこの空間の中にいると、どんな現実も薄っぺらなものになっていくようだ。嫉妬も、就活も、恋愛も。空想が輪郭を持ち、現実が輪郭を失う。ここはそういう場所だった。
「おしちゃってごめんね、照明吊りの時間まいてもらったのに」
「いや、床大変だっただろ。お疲れ」
 みゆきの隣に腰を下ろしながら、周平は言った。低く優しい声は、薄闇によく馴染む。ああずっとこのまま、暗い中二人で客席に座っていたい。公演なんか始まらなくていい。公演が始まったら、この客席は人で埋まる。わたし達が座る隙間なんてなくなってしまう。
「じゃあ最初の夢のシーンから……」
 由利子がてきぱきと場を進めていく。
「由利子ちゃん、もう貫禄だね。まだ2年生なのにすごくない? あの子」
「うん、すげぇよ。俺、教えたの一回目だけだったもん。背がちっちゃいから七ツで吊るのは大変だけどさ、吊るのは他の奴がやればいいもんな。プランナー兼オペとしちゃもう充分だね。俺もこれで安心して引退できる」
 引退。四年生にとっては、これが実質最後の公演だった。この劇団には学生以外も所属しているが、一般的にはやはり、大学を卒業すると同時に引退する。
「周平は、演劇続けるの?」
 そっと聞くと、周平は、大きく伸びをした。
「わかんない。俺照明しかできないから、続けるとしたらこれしかないけど、照明屋になるつもりはないからな。演劇は好きだし、こうやってるとやめたくないって思っちゃうけど。……中里は?」
 みゆきは目を伏せた。最後まで、名前で呼び合う仲にもなれなかったなと思いながら。
「……わたしもわかんない」
「まあでもどうせいつかまた、どこかの劇場で会えるよな、俺たち」
 すうと舞台が遠くなり、闇の中の周平の息遣いがくっきりと感じられた。恒川や大塚や由利子の声が、粒子の荒い電子音のようにぼんやり響いている。
「どっかの劇場ったって、名古屋にそんなに劇場ないじゃない」
 大きく笑ってしまいそうになる唇をゆがめながら、みゆきは軽い調子で言った。
「だなー、七ツかジーピットかナビか……俺らがよく行くとこってそのくらい? 狭い世界だよな」
 みゆきは、どうしようもないほどのうれしさをかみ締めていた。まったく、この程度で浮かれている自分はなんて単純なんだろうと思う。また会える、と周平が口に出したことが嬉しい。少なくとも、みゆきと再会することを厭う気持ちはないのだろう。いや、むしろ再会をのぞんでいるに違いない。また会いたいと思う程度には、自分のことを好いているのだ……。
「まあ、まずはこの公演を終わらせなきゃな」
「うん、頑張ろうね」
「中里は頑張りすぎだから、もうちょっと力抜けよ」
 周平がそう言って笑ったところで、由利子の声が上からふってきた。
「モッチーせんぱーい、上サス、シュート!」
「あー、本当だ。待っててー」
 そう言うと、周平は壁に立てかけた脚立を抱えて、舞台の上に飛び乗った。四メートルある脚立を開くと、するする登っていく。
 初めて周平を見たのも、この七ツ寺での仕込みのことだった。背が高く色白で、繊細そうな微笑を浮かべた周平は、演劇人というよりも、寡黙な芸術家という雰囲気に見えた。そして、新米だからとしゃかりき走り回っていたみゆきに、周平はおっとりと言ったのだ。
「頑張りすぎだよ。もっと力抜いてていいよ」
 周平は、よくそう言う。
 頑張りすぎだよ、と。
 だが、そうだろうかとみゆきは思う。自分が、何かを本当に頑張っているとはどうしても思えなかった。頑張っているのではなく、頑張りを誇示しているだけなのではないか。そんな不安がいつもある。演劇においてだけではなく、全てに対してその不安があった。その、努力に対する媚を誰かに知られたらどうしようと思うと、身悶えする程苦しい。
 だけど、周平に「頑張りすぎだよ」と言ってもらえるのは嬉しいのだった。自分は少なくとも、周平の目には頑張っているように見えるのだ。そう思うだけで、うっとりするような快感が体を走り抜ける。
 
 七時半になったところで、大塚から、「先に夕飯を食べろ」という指令が下った。シュートで苦戦している周平を尻目に、しぶしぶ二階に上がる。角度の急な、曲がりくねった階段を上がると、右手に流し場が、そして左手に楽屋がある。楽屋の入り口は閉じていて、中から制作スタッフ達の笑い声が聞こえた。
「えーてかさびしいっすよー、千鶴さん達とこれでお別れとかー」
 あの声は一年生の香織だろう。三年生の澪の声もする。
「恒川さんも周平さんも浩二さんも、これで引退だもんなー。舞監と演出と照明と、一気にいなくなっちゃう」
「ちょっとぉ、みゆきのこと忘れないでよ」
 千鶴の甘い声がする。なんだか、いつもより甘い声に思えるのは気のせいだろうか。自分の名前が下級生の口から出なかったことに対する気恥ずかしさで、みゆきは唇をかんだ。だが、その次の香織の言葉を聴いた瞬間、血の気が引いた。
「ねえ、みゆきさんて周平さんのこと好きなんじゃないかって思うの、あたしだけっすかね?」
 ああ……という声が、ぱらぱらと聞こえた。気まずい沈黙が、楽屋の中に立ち込めるのを感じる。みゆきは指一本動かせず、その場に立ちすくんでいた。
 澪が、その空気をフォローするつもりなのかなんなのか、明るい声で言った。
「仕方ないよお、千鶴さんと周平さんが付き合ってるのって、みゆきさん知らないんだもん。周平さんが魅力的なのがいけないの」
「えーっ、そうなんすか、千鶴さん!」
「あ、うん、みゆきだけじゃなくて、恒川くんとか、浩二くんにも言ってないの。なんか、同期に知られるのって恥ずかしくって」
「香織、言っちゃ駄目だからね? 恒川さんとか、大喜びで根掘り葉掘り聞いてくるに決まってるし、浩二さんは千鶴さんに一回ふられてるから、周平さんのこと闇討ちしちゃうよ。これはー、女の子達の秘密―」
「あーい、絶対言わないでーす」
 きゃらきゃらと笑い転げる声が何重にも重なり、わんわんと暗い二階に響く。みゆきの名前は、そこにすら上がらなかった。
 泣くかな、と自分では思ったが、涙なんて出なかった。流し場と楽屋の間にある事務室の、薄暗い中に積み上げられた書類の束をにらみながら、みゆきはじっと、足の下のコンクリートの冷たさを感じていた。流し場の窓に、「七ツ寺共同スタジオ」の逆さ文字。あの黄ばんだ紙、びりびり引き裂いたら少しはすっきりするだろうか。
 みゆきは、踵を返した。中二階から、音響が流している音楽が、そしてオペレーター達の雑談が背中を追いかけてくる。逃げるように、みゆきは階段を駆け下りた。
 ここでは駄目だ。劇場の中では駄目なのだ。ベニヤ板の匂い。ペンキの匂い。釘の匂い。夜より真っ暗な闇。非現実が現実とすり変わってしまうこの劇場の中では、悲劇のヒロインにもなれない。大道具なのだから。役者ではないのだから。空想世界をナグリで打ち出す裏方なのだから。裏方が泣いたって、それは現実にはならない。舞台の上の世界にはなんの影響もない。劇場の中の現実は揺るがない。ここはそういう場所だ。どこか、別の場所へ。
 扉を開け放ち、道路に飛び出す。商店街の方には、暖かい光が灯っている。後ろ手に劇場の扉を閉めると、ようやく、現実感が蘇ってきた。はだしの足の裏に、ごつごつとしたアスファルトの感触が広がる。
 芝居なんて。
 みゆきは、歯を食いしばって劇場をふりあおいだ。窓から、うっすら明かりが見える。視線を落とすと、ベンチの上に、何か置いてあるのが見えた。昼休憩の時に千鶴が持ってきてくれた牛丼のパックと、飲み干したコーラの空き缶。みゆきが置きっぱなしにしたものだった。
 みゆきは、ベンチに身を投げ出すように座った。いまいましい文字の書いてあるパックのふたを開け、箸を割る。すっかり冷え切り固くなった牛丼にその先をつき立て、大きく抉り取ってむさぼり食べる。冷えた米と牛肉の味が口の中にしみ渡ったその瞬間、ようやく小さな涙がこぼれた。まずい。
 そのまずさを引き金にわっと泣き出したかったが、そんな漫画みたいな泣き方は出来なかった。
 目を閉じると、まぶたの中に、さっき見た舞台が浮かび上がる。周平が吊った照明の明かりと、みゆきが釘を打ち込んだ舞台。美しい光景だった。劇場の闇の中に、ちゃんと生きている。今も劇場の中で色づき、光を浴び、音に包まれて、役者達の足に踏まれている。大丈夫、もうわたしがしなきゃいけないことはない。
 足元に落ちたコーラの缶を蹴飛ばそうとしてやめ、代わりに軽く踏みつける。
 また、どこかの劇場で会えるよな、俺達。
 かかとの下で缶が潰れる。
 自転車が一台、商店街の方へ消えていった。


 <了>