山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

ディモンの微笑み

「人類の敵 ミッチイをたたっ殺せっ!」
「そうだそうだ!」
 病院の前でわめく人間達に、博士がスピーカーを通して呼びかける。
「全市のみなさんご安心ください ミッチイは病院でまもなく死にます 町はふたたび平和になるでしょう」

 『メトロポリス』で描かれた人間とロボット達との戦いを終わらせたのは、人造人間ミッチイの死だった。散々酷使してきたロボット達に反撃され、恐怖に逃げ惑っていた人間達は、ロボットの反乱の首謀者であったミッチイの死を目前に、彼が寝かせられている病院の前に詰め掛ける。しかしそこで、自らの出生を知らず孤独の中で死んでいく他なかったミッチイの生い立ちを聞いて、ころりと態度を変える。ミッチイは彼らの言動に思いを馳せることもなく死んで行き、人間達の中には平穏が戻る。
「全市のみなさんご安心ください ミッチイは病院でまもなく死にます 町はふたたび平和になるでしょう」
 その放送通りに――。

 『メトロポリス』(一九四九)は、『ロスト・ワールド』(一九四八)、『来るべき世界』(一九五一)と並び、手塚治虫のSF作品初期の傑作として有名である。戦後まもない時代、「SF」という言葉すらなかったこの時代に発表されたこれらの作品が、当時の人々に大きな衝撃を与えたであろうことは想像に難くない。手塚治虫は、『メトロポリス』のあとがきの中でこう書いている。
「おかげさまで予想以上の反響を呼びました。(中略)SFというエンターティンメントをこどもたちに認識させることにかなり役立ったものと自負しています」
 だが、これらの作品に勝るとも劣らない初期SF作品の中で、当時の読者にはほとんど評価されなかった作品がある。『ロック冒険記』(一九五二)がそれだ。主人公は、手塚作品を代表するスターの一人ロック・ホームと、こちらも初期の手塚作品にはちょくちょく出てきた大助少年。物語の舞台は、突如地球に接近した未知の惑星「ディモン」である。
 『来るべき世界』の翌年、あの『鉄腕アトム』とほぼ同時期に連載していたこの作品は、当時は「難解すぎる」という理由でほとんどウケなかったという。
 しかしこの漫画は、手塚治虫作品の中でも特に重要な作品のひとつだと私は思っている。『メトロポリス』にも出てこなかった悲劇が、この作品でほぼ初めて描かれているのである。
 それは「争いが、主人公の死によって収束(解決ではない)を迎える」ということだ。争いを終える為には時には犠牲が必要であること、そのことの哀しさを、主人公が自分の身をもって示した作品は、これより前の手塚作品にはほとんどない。
 確かに『メトロポリス』でも、ほぼ主役と言っていいミッチイの死亡が描かれている。だがミッチイは、悲しい過去を背負った両性具有の人造人間で、その性質の通り、ポジション的にもヒーローとヒロイン両方の性質を持っている。一般読者の感情移入を受け入れるタイプのキャラクターでないことは確かだろう。
 少年漫画は基本的に、読者の感情移入の対象となるキャラクターを主役か準主役に配置している。初期の手塚作品において、その役を一手に引き受けていたのが「ケン一(スター名)」で、『メトロポリス』、また『来るべき世界』においてもそのポジションで活躍している(ヒゲオヤジの身内であることも共通している)。彼は物語の主役として常に事件の中心で動くが、彼が死ぬことはない。
 しかし、『ロック冒険記』では、主人公として描かれるロックが、悪役の東南西北(トーナン・シーペイ。スター名はハム・エッグ)と相討ちになるような形で壮絶な最期を遂げるのだ。これは、当時の漫画としては考えられないほどハードな展開であったという。
 『ロック冒険記』のロックが「感情移入対象となるキャラクター」と「主役」を兼ねている純粋な主人公なのかということに関しては、断定はできない。この『ロック冒険記』においては、大助という少年もロックと大部分行動を共にする。彼はヒゲオヤジの息子であり、その設定は、『来るべき世界』や『メトロポリス』のケン一とまったく同じである。
 だが、大助が読者対象の主人公であるとすると、ロックが『メトロポリス』におけるミッチイ的ポジションになってしまう。『ロック冒険記』におけるミッチイのポジションを取るのは、人間に育てられた鳥人、チコだろう。また、大助はケン一よりも脇役としてのキャラクターの濃さを持っており(丸々とした外見や、柔道の技など)、作者をして「主役を食う」と言わしめるヒゲオヤジと共に、物語にユーモアを添える役割を担っているキャラであると私は考える。
 共に「探偵物」でデビューしてはいるが、典型的な日本人の少年役が多いケン一と違い、ロック・ホームは最初から外国人名であり(間久部緑郎という和名も後に生まれるが)、作中で「美少年」と表現されることも多く(例『漫画大学』)、読者に完全に近しいタイプの主人公を演じることはあまりない。だが、この『ロック冒険記』の舞台はどこの国ともわからない世界だし、ロック自身も、正義感は強いが割と普通の少年として描かれている。この物語における主人公は、ロックと考えて差し支えないだろう。
 作品の内容について触れたい。ロックと大助は、地球に突如急接近した惑星ディモンの調査員として地球を飛び出す。だが二人は不運からディモンに取り残されてしまい、惑星での自活を強いられることとなる。惑星には、地球とまったく異なる生物が蠢いており、その頂点に君臨する知的生物は、鳥と人間のあいの子のような「鳥人」であった。かれらは地球人で言うところの原始時代程度の文明しか持っていなかったのだが、ロックがある鳥人の子供「チコ」に火や学問の概念を教えたことをきっかけに、急激な進歩を遂げることとなる。地球人と同等の知性を有するようになった鳥人。しかしその鳥人を、地球人は次々と捕獲する。奴隷として使う為だ。奴隷として虐げられ続けた鳥人達はやがて立ち上がり、人間達に復讐を始める――。
 ここではっきり描かれているのは、金儲け主義の社会のエゴである。鳥人奴隷達の悲惨な描写は、明らかに黒人差別時代のパロディだ。この作品の中のこれらの「悪」を一手に引き受けているのが東南西北である。彼は卑怯にして冷酷な男で、鳥人をありとあらゆる産業に活用することを思いつき、「鳥人会社」という奴隷販売組織まで設立する。それがきっかけで、地球人と鳥人の戦いが始まるのだ。
 しかし、と私は思う。この男が不在だったとして、地球人と鳥人は、穏やかな関係を築くことができただろうか。異なる文化(と外見)と、ほぼ同じ程度の知能を持つ二つの種族が、そう易々と「友好関係」を築くことができるだろうか? 主人公のロックは、そんな未来を夢見て鳥人の文明の進歩に手を貸した。だが、ロックがチコに「ABC」を教えたその瞬間こそが、この二つの種族の間に争いの火種がまかれた瞬間なのである。
 知性と自我の目覚めがもたらす悲劇というテーマを、手塚治虫は「鉄腕アトム」や「火の鳥」などの中でも繰り返し描いている。知性や自我の目覚めがどうして悲劇につながるのかというと、それらが結局、「対立」を生むからだ。高い知性を持たない動物たちの間には、弱肉強食による捕食関係はあっても思想の対立や差別はない。しかし人間はどうか。同じ人間という種族の生き物であっても、知性を持っている二人の間には思想や文化の違いがある。これが大きくなれば結局争いが生まれる。自らの意思でその対立を選択する者もいれば、どこかでおきている「対立」に巻き込まれるようにして親しい人と引き裂かれる者もいる。
 戦争体験者である手塚治虫は、対立そのものによって引き起こされる悲劇を命題のひとつとしている。自分は必ず対立を描いてしまうと手塚本人が言っている通り、手塚作品には「戦争の縮図」とも言うべき「対立」が必ずといっていいほど現れる。親しい二人が引き裂かれ敵同士となる、という展開も多い。例えば初期の作品なら『アリと巨人』や『新撰組』などがあげられる。また、対立しあう二つの種族や文明の間で迷う、または苦しむキャラクターも不可欠だ。『来るべき世界』のフウムーン、『0マン』のリッキーなどはその代表だろう。
 手塚治虫は、これらの対立の解決策を、決して安易な方法では示さない。そもそも、完全な解決など不可能であるからだ。そして多くの場合、争いの解決には、大きな犠牲が払われる。この、「争いの終結には何か犠牲が必要だ」という事実を、児童向けの娯楽作品の中で明確に表現するクリエイターは当時いなかったのである。手塚治虫の絵はデフォルメが強く、初期は特に単純なユーモアに満ちた作品が多いが、そうしたテーマを誤魔化して描くようなことはほとんどしていない。
 『ロック冒険記』もその類にもれず、非常にハードな展開をもって収束することとなる。ロックは、自分たちと共に生きようと言うチコを選ぶことができず、一人で東南西北と対峙する。激しい戦いの末東南西北を倒したロックは、自分も深い傷を負い、チコに看取られながら息絶えるのだ。
「戦争をはじめてはいけない チコ……お互いの破滅だ ぼくの話をむだにしないで……」
 その言葉に、チコは泣きむせぶ。そしてチコは彼の遺言通り、鳥人達と、ロックの遺体を連れてディモンへ帰る。最後は、大助とその父親ヒゲオヤジが「ロック記念館」からディモンを見あげ、ロックのことを思い出すシーンで終わる。
 この話は、手塚治虫が愛読したカレル・チャペックの『山椒魚戦争』(一九三六)がモチーフとなっている。『山椒魚戦争』は、労働力として人類に利用され出した山椒魚が、人間を凌駕する知的生命体へと進化を遂げ、やがて人類を滅亡に追い込んでいく、という話で、「山椒魚シンジケート」なるものも登場する。一九三〇年代の資本主義社会を痛烈に批判したこの作品は、前半の大まかな筋が『ロック冒険記』と一致する。後半はまったく違い、『ロック冒険記』は、少年漫画として王道の「敵と戦い、打ち勝ち、平和を取り戻す」道を走ることとなる。
 もっとも、連載時のラストは違った。連載終了が早まった為、かなり急いだラストを迎えることとなる。東南西北はヒゲオヤジの活躍で逮捕され、チコ達鳥人は地球を攻撃する為に星に帰る。それと同時に、地球と月の引力の力でディモンがはじき出されるように地球から遠ざかって行き、結果地球は鳥人の攻撃を免れることができた、というのが連載時の最終回だ。現在の『ロック冒険記』に収録されているのは、単行本化の際に手直ししたバージョンなのである。やはり手塚治虫としては、この生ぬるい最終回では納得できないだろう。
 ディモンと地球が、ロックの死後どのように付き合っていくことになるのかは、作品の中では触れられていない。ディモンは依然、月と並んで夜空に浮かんでいるのだが。もしかしたら、ロックの言葉が忘れ去られる時代になって、再びディモンと地球との間で戦争が起きるのかもしれない。その可能性はゼロではない。
 争いは、何かの犠牲の上に収束を迎えることがある。だがそれは、一部の人間の感情に支えられてようやく維持される儚い小休止であって、戦いの火種そのものがなくなることは決してない。「戦争」という行為自体が行われていなくても、大なり小なり常に戦いは起こっている。戦いを起こす要因の一つは私達のこの知性であり感情であり、人間性そのものだ。これが無くなる時こそが、完全なる平和が実現される瞬間なのである。そんな瞬間を私達は望むだろうか?
 『来るべき世界』で、そのようなシーンが描かれる。崩壊していく町、死のガスが降りしきる中、いがみあっていたノタリアンとレドノフが手を取り合い、平和を叫ぶ場面だ。
「これがわれわれがのぞんでいたものだったんだ」
「そうだレドノフくん まだおそくない」
「平和だ平和だ! 地球に戦争はなくなった!」
「人間バンザイ 世界の文化! バンザァイ」
 滅亡を前に、人々の心は完全に一つとなる。だが結局、この後世界は崩壊しない。多大な犠牲を前に、主人公達が平和を誓うだけだ。涙と共に誓われる平和の尊さももろさも、手塚治虫は知っていたに違いない。

「わしたちはこのロック記念館を守るんじゃ ロックの名は永久に残るだろうよ……」
 『ロック冒険記』のラスト、ヒゲオヤジのセリフである。
 ロックの名は、永久に残されるかもしれない。だがその名は、ディモンと地球の平和を保つ力を持ち続けられるだろうか?
 主人公が平和を誓うとき、それは「めでたしめでたし」という非現実的な一文とどこかで結びついている。しかし、主人公が平和への礎として死んでみると、ここで初めて、それによってもたらされる平和の儚さ、その現実のもろさに気づかされる。
 ディモンの模様が形作るロックの微笑みは、何も語らない。