山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

おすすめ自己啓発法

9時起床。朝食にグリーンスムージーを飲むも、その後パリ・セヴェイユで買ったクリームブリュレを食べているので特に健康的ではない。パリ・セヴェイユのクリームブリュレ、めちゃくちゃ美味い。そこらのレストランのよりずっと美味しい。買いすぎないように気をつけなければ。

午後、教育について人と議論する。

話し相手から「情弱じゃないつもりの情弱」「あなた方は情弱になってはいけませんよ、ということを教える情弱ビジネス」という言葉が出てきて、ネット社会の今の時代の怖さはそこにあるよなあと思った。「知っているつもり」になるのがあまりにも容易すぎるのだ(もちろんこれは私もだけど)。そして、「知っているつもり」にさせるビジネスがあまりにも容易に、そして空疎に成り立ってしまう。恐ろしい。村上春樹の多崎すぐるとナントカナントカに出てくるスクールなんて、今の世の中に放り込んだらまったくもって良心的な方だ。

本を買うときにAmazonを使う人は多い。本屋で買うのもAmazonで買うのも変わらない、と思っている人もまた多いだろう。しかしその二つはまったく別の行動だと私は思う。Amazonでの買い物には、「予想外」の出会いがなさすぎる。確かに「他のおすすめ商品」なんてものが表示はされる。でも、書店で目当ての本に行き着くまでに目に触れる本の数や、あるいは何の目的もなくふらりと入った本屋で眺める光景の豊かさというものは、現在のショップサイトの仕組みではほとんど再現できない。そして教育とは、いつでも「予想外の何かに対して開かれるチャンス」とともにないといけないのである。

あまり本を読まない若い人から「読んでおくべき本はなんですか」と聞かれたとき、私はいつも「小難しい本をすすめられても読む気力がわかないだろうから、まずは大型書店の全部のコーナーを見るところから始めれば」と言う。全部のコーナーというのは、本当に「全部」である。どうせだいたいの人間は、自分の興味のある2、3コーナーしか見ていない。雑誌と小説とか、自己啓発とか。そんなんじゃなくて、フロアに存在するすべての棚を順番に眺め回していくのだ。一冊一冊のタイトルを見ていくくらいの丁寧さで。地図も、児童向けドリルも、泌尿器科の専門書も、茶道の本も、画集も、何から何まで。新宿紀伊国屋や池袋ジュンクだとあまりにもでかすぎるかもしれないが、渋谷ジュンクとかなら1時間もあれば充分終わる。本を読み慣れていない人間が『ツァラトゥストラかく語りき』を読むよりはずっと短い時間である。

全コーナーの本を眺め回していると、冗談抜きで、世界の広大さが頭にすーっと入ってくる。それは簡単に言えば途方にくれる感覚なのだが、私はこれこそが「自己啓発」の入り口の感覚だと思うし、へんてこりんな「やればできる」「イメージすれば叶う」論よりも重要だと考える。だから今でも、頻繁に本屋に行ってはぐるぐると全部の通路を歩く。どれだけ本を読み慣れていない、関心範囲の狭い人間でも、これを繰り返しているとなんとなくでも興味の惹かれるキーワードは増えてくる(というよりも自覚できるようになる)。変な自己啓発本を読むよりもずっといい自己啓発法だと思っているので、興味のある人はやってください。大事なのは、絶対に手抜きをせず全ジャンルを見ることです。

夜は、提携先氏が作ってくれたおじやを食べた。鮭のアラ入り。うまかった。

8月終了

朝からコップを割る。そのことで、水星逆行シーズンに入ったことを思い出した。

夜は、久々にしっかりとご飯を作った。玄米ご飯、大きな肩ロースを使った生姜焼き、焼きなす、なめこと小松菜の味噌汁には溶き卵を入れて。

食べながらHuluでアニメを見た。「もやしもん」と「サムライチャンプルー」の一話を見て、その他気になるアニメのOPを漁り、最後に「おそ松さん」の3.5話(DVD収録不可となった1話の代わりに入れられた回)を観る。

もやしもん」はかなりかわいい(菌がね)。オリゼーたちが遥にビビって「わーっ」と言うところとか、ヨグルティの「ござるか」「ござるよ」の会話に悶えた。人物の作画はもうちょっとなんとかなればなあというところもないではないが、声優はバッチリハマッているし、とにかく菌がかわいいので問題ない。

サムライチャンプルー」はおしゃれだった。ビバップの世界。というか渡辺さんの世界。

おそ松さん」の3.5話は、くだらなかった(褒め言葉)。ウォータージャンピングストーンのCMが、90年代の特撮おもちゃCMのニュアンスをしっかりつかんでいて好感が持てた。しかし1話の消滅は惜しい。

Huluでは普段海外ドラマや映画ばかり観ており、アニメを観ることがあんまりない。しかしよく見ると、懐かしいアニメがたくさんあってこれはこれで面白そう。ウエディングピーチがあって動揺した。あまりに懐かしい。私はウエディングピーチ本編自体にはなんの興味もなかったのだが、これの変身アイテムがめっぽう好きで、食玩を必死に集めていたのである。

 

というわけで今日で8月は終了。就職して最初の一ヶ月がすぎた。良い意味で淡々とすぎた一ヶ月だった。引っ越し先もとりあえず見つけることができたし、映画も二本見られたし、本はかなりたくさん読めたのでとりあえず及第点。来月からが本番だろうな、という気はする。しかしまだ終わっていない原稿が1本。気を緩めるわけにはいかないので引き続き頑張ります。

たまご食べたい

昼、写真家の友人が渋谷まで来てくれたのでパン屋でお茶をする。新しく考えている企画についての意見を求められ、その流れで網野善彦の話などした。チーズつきのパンを少しかじりつつ。

「賎民に対する差別」の概念は、中世以前と以後で違っている、と網野氏は著書でよく書いている。現代で差別といえば、部落差別や障害者差別などがそうであるように「自分より劣っていると信じているものに対する不当な嫌悪、偏見」のようなものがすぐさまイメージされるが、中世以前に存在していた差別は少し違う意味合いを含む。異界、越境に対する畏怖の念のようなもの。ヒエラルキー内の「下向き」の視線ではなく、外の存在に対する眼差し。そういうものに接近したコンテンツをつくれないだろうか、という話だった。

これは非常に難しいテーマである。「異物への眼差し」というものを現代にうまく切り取れるかどうか。

眼差し自体は死んではいない、と私は思う。でもそれが機能する環境、機能させる装置というものがあまりにも少ない。「それ」は現代においては、あまりにもいろんな社会通念に吸収されやすいもろい観念なのである。現実的に今存在しているありとあらゆる差別に対して、真に誠実であるとはどういうことか、という問題もある。これはつまり、自分の眼差しをどこまで厳密に批評できるかという勝負のようなものだ。

それでも彼女の話を聞いて、写真というジャンルでならアプローチの手立てはあるのかもしれないとも思った。彼女の提案は、簡単にいえば「個人の眼差しという地点を大切にする」というものだった。結局、なんであってもそこが一番重要だよなと平凡なまとめ。

午後は人と、書籍の構成というものについてああでもないこうでもないと話し合う。こういうことができる環境であることが嬉しい。

話の中で、「小池さんには教養を感じますよ」と言われた。教養があるってどんな感じなんですか、と聞いたら「この人は、私が何を言っても自分の感情だけで断罪してくることがないだろう、という安心感がある。多様性を知っているってことが教養なんじゃないかと思う」と言われて、嬉しいやら気恥ずかしいやら……自分に教養が本当にあるかどうかはまだわからないが、教養があると思って見てくれている人に恥ずかしくない振る舞いをしなければ。そして教養という言葉を聞いて、異界への眼差しとか、畏怖の念といったものもまた教養なんだろうか現代においては、と考える。

 

夜、遅く帰ったら夕飯として食べられるものがろくになく、とりあえず目玉焼きをふたつ作って食べる。ツレヅレハナコさん風のを作った。私は日本でも相当上位にくいこむ「卵好き」だろうと思っていたが、ツレハナさんの卵愛には全然負けているなと思う。私ももっと、卵が食べられる幸せをかみしめながら生きていきたい。

なお、私が卵好きなのは「ぼくは王さま」シリーズのせいである。このシリーズに出てくる王さまは卵料理が大好きなのだ。「王さまは、たまごやきがだいすき。朝も、ひるも、夜も、いつもたまごやきを食べます」。ああ、これだけで私もたまごやきが食べたくなってきた……。

美人は大変

就職にともなう国民健康保険の切り替えのため、朝一で市役所へ行く。この作業をするのは二度目だ。転居手続きのため、住民票のコピーも取る。早めに行ったので、いつも通り10時には出社。粛々と原稿をし続け、23時に帰宅した。こうして見るとかなり長い時間会社にいるが、強制されているわけではまったくない。

夜、風呂に入りながら、美容系の本をまた何冊か読む(Kindleの読み放題で)。もっと痩せたいし肌も綺麗にしたいし化粧にも凝りたいが、ちゃんとやろうと思うと時間やものの購入が必要なことが多くて、なかなか「いい女になる計画」は進んでいない。コツコツ頑張るしかない。

私のこの試みは5月から始まったもので、あれこれいろんな項目に分けて頑張りはじめて3ヶ月になる。わかったのは、まず何をおいても重要なのは「腸」だということだった。腸の調子がよければ、気分もそうそう下がらないし肌の調子もいいし、老廃物の溜まりかたも軽減される。生理痛が軽減されたのもこれが原因なんじゃないかという気がする。

私の場合、粉末の酵素ジュースを飲み始めたらすぐさま腸の調子がよくなってきた。普段の食生活にビタミンが足りないのだろう。あとは下半身のストレッチとリンパマッサージ、ヨガ。やった日のあととやらなかった日のあととではまったく感覚が違う。

今後の課題は、日々の食事メニューを栄養バランス重視のものに変えていくことと、ヨガの習慣をもっとしっかり身につけていくこと。

それにしても「美女道」は険しい。死ぬまでにどのくらい満足のいく結果を出せるだろうか。

先日発売された神崎恵氏(美容研究家、でいいのかなこの人は。モデルではないし)の新しいスタイルブックを読んだら、「ハッピーな美人」とはここまでやらなきゃいけないのか、と暗澹たる気持ちになった。「神崎恵はこんな人」みたいな、周りの関係者からのコメントも載っていたのだが、「優しさ・強さ・ちょっとヌケてるところなど、現代の女性に求められるすべてを兼ね揃えた完璧な存在」というように評している人がいてつらみを感じたのである。

40歳だが少女のようにぷりぷりと美しく、でもお母さん業も完璧で、スーパーで買い物をしているだけでも誰かを恋に落とすような可憐さを持ち、押し花作りとかお庭キャンプをして日々を彩り、だけど無理している感じはまったくない……ああ、「現代の女性に求められる」もののなんたる多さよ。

「いつまでも少女のような美しさを」という考え方によって、日本の女性は相当疲れているのではないか? と思うことがよくある。石井美保氏のインスタ写真なんかを見ていても、肌が綺麗でいいなあなどの単純な感想を抱く一方、「ここまで頑張らなきゃいけないとは」となんだか疲れるのだ。もちろん、本人たちが素敵な女性であることとは別の問題として。

私が今までに会った美人で印象深いのは、少し前にも書いた、私の前でフラダンスを踊ってくれた40代の女性である。彼女はのびのびとしていて、若々しさは「健康」の一部としてのそれであり、年齢不相応に幼いところはまったくなかった。男性に群がられるような美人ではなかったが、彼女を好きになる人はたくさんいるだろうなと思った。私もどちらかといえばああいう風でありたい、最終的には。

でもとりあず今は頑張り方面で頑張る。年相応に大人っぽい、かついい女になろう。やるべきことは山積みだ。

聡明なる私の先輩が「おじさんたちは、自分の予想の範囲の質問をしてくる賢いポメラニアンみたいな女が好きなんですよ」と言っていたが、「予想の範囲を超える美しいドーベルマン」みたいな女になって、ふぬけたおじさんたちのハラワタを食って回りたい(急にホラー)。

腕時計がほしい

久々に、自分の家で目覚める朝。ミュージカルシーンのある夢を見た。激しく風邪気味で起きるのが辛かった。外装工事をしているので、朝からドリルの音がうるさい。

土曜日だが、漫画の仕事がたんまりあるので会社に行く。しかし原稿あまりはかどらず。絵の描き方を忘れている……。

昼、いつもの店でゴーヤチャンプル定食を食べる。この定食は「ゴーヤチャンプル、ソーキそば、ごはん」という組み合わせで出てくるのだが、米と麺の合わせ技が非常に問題であった。体型のことを考えると、この二つをフルで食べていたらデブまっしぐらである。かといって、ゴーヤチャンプル単品で頼むと口が物足りない。難しいところだ……と思っていたら、今更になって「半ライス」単品が頼めることを発見した。自分の不注意が嘆かわしい。今度から、ゴーヤチャンプルとライスだけで頼むことにする。

午後はちょっと印象深い拾い物をした。

最近、ずっと「腕時計が欲しい」と思っていた。私は腕がごついので、華奢な、ブレスレット系のを買おうと思っていた。色はゴールドかピンクゴールドで、細めで綺麗なやつがいい。ブランドは、いろいろ見てロゼモンかなあと思っていた。

腕時計の世界には、この世代でこのブランドのものをつけていたらおかしいとか、そういう作法がたくさんあって無粋者にはなかなか辛いものがある。ロゼモンはそれほど高級なブランドではないが、それでも3〜5万のラインではあるので、私にとっては安い買い物ではない。財布や靴も一気に新調したいので、全体の予算をどうしよう、ということは悩みの種だった。アマゾンを見れば、1万円くらいの安物の時計はいくらでも売っている。別に人前に出る仕事をしているわけでもないんだし、安物でもいいかもなあ、と頭のすみではずっと考えていた。

そうしたら道で、ピンクゴールドの安物腕時計を拾ってしまったのである。多分五千円もしないやつだと思う。留め金が壊れていたのでつけられはしないのだが、全体のかっこうは、私が「これ系が欲しいな」と思っていたものと近かった。

引き寄せの法則」は、イメージが具現化すると説く。今回の拾い物はまさにそれだなと思ってしまった。腕時計が欲しいが、自分なんかには安物で十分なんじゃないかと思っているからこういう拾い物をするわけだ。私にはハイブランドの腕時計こそがふさわしいと本気で思っていたのなら、もしかしたらエルメスを拾ったのかもしれない(流石に警察に届けますけど)。

自分を低く見積もって、それよりさらに低いものでまかなおうとするのが私の悪い癖である。もっともっとこう、シャネル・エルメス・ヴァレンティノ、みたいな世界観のことを志向していこう。それが欲しいというよりも、そういうブランドにはふさわしくない自分、という思い込みを外していかねば。

ところでロゼモンって何度見ても書いてもデジモンしかイメージできない。