山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

ソロモンの偽証、白河夜船

映画三昧の一日。まずHuluで「ソロモンの偽証」を見る。原作は未読。つまらなかった。Hulu鑑賞でよかった。

最近の日本のサスペンス映画って、どうしてこういうノリのものばかりになってしまったのだろう。やたらと長く、ちょっと薄暗くはしているが闇の深さはまったく描かれず、画面といえば顔のアップばっかりで、何もかも説明しないと気がすまない。

湊かなえ原作の映画「告白」が私は苦手だったのだが、「ソロモン」もこれと似た印象。「人の業見せるぜ〜」という意気込みだけは伝わってくるものの、どうということもない。子どもの世界ならではの残酷さも、子どもと大人のディスコミュニケーションの痛みも、人の死を背負ってしまったことの苦しみも、全然表現されない。演技が生きていたのは、永作博美ドランクドラゴンの塚地だけだ。

同級生の死をめぐり、中学生たちが自主裁判を決行するというストーリー自体はなかなかエキサイティングだ。でも、法廷ものというのは究極の会話劇である。なあなあの捨て会話が一切無いからこそ物語が立ち上がる。演劇ではなく映画である以上、一度に写せる時間軸がひとつなのは仕方がないが、なんかもっとこう、リアルの裁判傍聴の時に襲い来るような、トリップしたような感覚を映画でも創り出してほしかった。こういうのはやっぱり、三谷幸喜の方がうまいのかも……。

と、これを書いていて「半落ち」を観なかった(原作は覚えてる)ことに気づいたので今度読もう。

「ソロモン」のあとに、吉本ばなな原作の「白河夜船」も見た。よしもとばななから見てこの作品が「奇跡の再現度」なのはよくわかる。なんとも言えない70〜80年代臭と、若干のアルジェント風味。吉本ばななが、この作品について日記で「他の監督にはいくら言っても伝わらなかったものがこの監督には通じた。私たちはまったく同じものを見ている」というようなことを書いていたのももっともだろう。しかし、これだったら小説を読めばいいかなあという感じ。

朝はオシャクソなカフェでタンドリーチキンサンドを食べた。パンケーキと迷っての選択。素直にパンケーキにしておけばよかったなと後悔。好きなものを好きなだけ食べるためにも、運動をきちんとしなければ。

夜は原稿を一本。よく働いた。

アマルガム

午前中は物件めぐり。またもや豪雨で本当に嫌気がさす。梅雨時期はろくにふらなかったくせに、台風のシーズンを前に豪雨祭りとは。

物件は2つ見たのだが、一軒目は古すぎて動線が悪く、二軒目は目の前が線路でやっぱりそれも微妙であった。どちらも立地はよかっただけに残念。

そしてもうひとつ残念なこと。今回一緒に行った不動産屋さんは紹介で知り合った方なのだが、彼に対する信頼感が一気に落下してしまった。なぜかというと、彼が自分のクライアントの悪口を言ったからである。クライアントの悪口、しかも精神疾患をからかうような人のことは、私は一発で嫌いになってしまう。紹介してくれた人には悪いが、彼の仲介で賃貸契約を結ぶことはないであろう。客商売をしている人は、そういうところで客を逃すということを忘れないでほしい。

で、午後はずっと楽しみにしていたランチ。大尊敬するクリエイターのお兄さまT氏と、レストランで一年以上ぶりの再会をする。Tさんは、映画学を筆頭に、思想、芸術、文学、その他あらゆる分野に通じた、私から見るとまさに教養の塊のような人だ。なのに知識をひけらかすようなことを一欠片もしないのが尊敬できる所以である。SNSでつながっている以外は、普段雑談LINEを送り合うでもなく、年に1、2回会うくらいの関係。しかしその分たまの面会の濃度はすごい。あらゆるコンテンツについての批評話をしまくらなければいけないので大変だ(口の筋肉が)。

再会の挨拶もそこそこに、飲み物がやってくるなり私が「シン・ゴジラどう思います!?」と鼻息荒く聞いたので、「え、もう? もうそこいっちゃう?」と笑われた。庵野監督の役割について、リアリティについて、そして「ズートピア」の凄さについてなど夢中で話し合う。食事も美味しかったが、話が面白すぎて味をほとんど覚えていない。

その後も、場所を変えて延々コンテンツ談義。映画から小説から政治・恋愛まで、ありとあらゆる方面の話をした。重要な話があまりにもたくさんあったのだが、全部書いていると恐ろしい分量になるので小出しにしていくことにする。

「みきちゃんって、何についてもまずは自分で考えて咀嚼して、自分の言葉で語るタイプじゃない。みきちゃんみたいな人、意外といないんだよ。いろんなもののアマルガムだと思うんだよね」

途中でそう言われてじーんとした。普段、「私の武器はこれしかない気がする、でも本当にこれは武器なんだろうか? ここに私は、私が私であることの意味をちゃんと込められているんだろうか?」と自問することばかりだから、「それでいいんだよ」と言われたような気持ちになった。

ものを作っていくなら、「この人の目は絶対に本物だし、絶対にごまかせない。私が少しでも何かに甘えたら、この人はそれをあっさりとあるがままに見ぬいてくるだろう」と真剣に思える相手が身近にいるのは幸運なことである。

私にとって、そのうち一人は映画監督のT橋先生で、もう一人がTさんである。二人とも、出会えたことのありがたさを思う度に背筋が伸びるような相手だ。そういう人と知り合うことができ、しかも多少なりとも期待をかけてもらえているというのは僥倖でしかない。二人がいる限り、私はある種の手抜きというものを絶対にしないでいられる自信がある。

そして、「君の才能を信じている」という言葉が与えてくれるものの大きさを思うと、私も、素晴らしいと思う人のことは言葉を惜しまず褒めまくっていかなければと思うのだ。アドラー先生には怒られそうだが。

 

アマルガム」、という言葉が気になって、帰ってから色々考えたり検索したりする。意外なことに、有島武郎の文章がひっかかった。彼は「ミリウ」(フランス語で「環境」)という言葉を使って、インフラの発達により地域文化が融け合っていく、近代日本の社会の動きについて論じている。

「鹿児島で産出したボンタンを青森の人でも食ふことが出来る世の中になつて来てゐます。青森の人はそれによつて鹿児島の空の青さも夏の暑さも、味はない時以上に想像することが出来ます。又青森の人自身が鹿児島まで行くのも、その容易さは維新以前に於ては空想だも出来ないことでしたらう。だから広義の自然から考へても青森人の環境は拡げられてゐる訳です。而して若しその青森人に生長の本然的な欲求がある以上は、縦令その人が自分の芸術制作の範囲を自分の故郷だけに限らうとしても、到底故郷以外の影響を蒙ることなしにはゐられません。かくて環境は相互的に(amalgamate)して地方的の特色を失つて行きつゝあるのは世界中に見られる拒み難き現象ではありませんか」
有島武郎「再び本間久雄氏に」)

極めて重要なことを、さらっと書いていることに驚いた。「青森の人自身が鹿児島まで行くのも、その容易さは維新以前に於ては空想だも出来ないことでしたらう」。今やボンタンどころか、世界中の最新ニュースを1秒で手に入れられる時代である。彼の推測は完全に正しい。

混ざり合い、とけ合っていくこと。私達が、社会のあらゆるものの影響を免れ得ないということ。これらは本当に重要なポイントだ。私たちはもう、かなり広い範囲の「社会」というものと、相互に影響しあうことから1秒も逃げられないのである(有島が言うように昔はそうではなかった)。私も、今この瞬間にすでに、社会に影響を振りまいてしまっているのかもしれない。多分そうなんだと思う。

自分の言動が社会に”反映”されるスピードは、多分これからもどんどん早くなっていく気がする。すごいことのような、怖いことのような。せめて、善きもののためにその流れを使っていきたい。そして、アマルガムとしての節度みたいなものを、独自に守っていきたいなと思うのである。あらゆるものに噛み付いていくなら、そのくらいのことは考えなければ。

お菓子をいただいて、22時すぎに帰宅。楽しさの余韻に浸りながらレトルトカレーを食べて爆睡。

格闘家の目

起きたら、吉田沙保里が決勝戦でドラマチックな敗北をしていた。あの吉田沙保里が負けるなんて驚き。フモフモさんのコラムを読んでうるっとくる。バドミントンは金をとったようで、本当に今回のオリンピックは日本勢が好調だ。

午前中、またもどしゃぶりの中取材に行く。とある格闘家とお会いした。めちゃくちゃ強そうだった。当たり前だけど。

取材の一環で、彼の指導する体操の会に混ぜてもらった。運動歴を聞かれ、昔は武道をやっていたと話したら、「さっきちょっと体を動かしているときに見ていたんですけど、ちゃんと肩甲骨から動かしていましたね。やっぱり体が覚えているんだね」と言われて感心する。やっぱり格闘家たるもの、ほんのちょっとした動きから強さを見抜くのだろう。

体操は楽しかった。股関節のリリースが大事だということがよくわかる。最近また運動不足だったので結構効いた。運動欲がわきあがり、オフィスに戻ってからフラダンスの体験レッスンに申し込みをする。

それにしても、生理前で糖分欲が強い。お菓子をやたらと欲してしまって危険である。朝は酵素ジュースに卵・納豆・ごはんといういつものメニューだったが、足りなくてオフィスについてからレーズンパンも食べてしまった。早めにあがり、しっかり夕飯をとることにする。大根と厚揚げの味噌汁に、豚肉・ピーマン・アスパラの鶏ガラスープ炒め、納豆、玄米ご飯。

ちょうど今日のほぼ日手帳に、「長寿にいちばん結びつくのはカロリー制限だ」という話が載っている。腹八分目、七分目くらいでやめる理性というのが私はあまりないので問題だ。貧乏人の癖で、腹一杯になるまで食べてしまう。どうにか耐えていきたい。もっときっちり痩せたいし……。

ソフトバンクの新規申し込みオプションを色々はずさなければいけないのだが、めんどくさくて全然やっていない。こうやってオプションの存在自体を忘れ、会社に金を巻き上げられている人がたくさんいるのだろう。そうは問屋がおろさないぞ、と思いながら怠けている私。こういうのをすぐにやれる大人にならねば。

構成の魔法

ものすごい土砂降り。ちょうど取材に出るときに大雨となり、全身ひどいことになった。

会社で、自分たちの運動経験について話す場面があった。社長が「子どもの頃は、土地柄+男子校マインドに染まっていて、話すときはいつも『相手と真剣勝負になったら勝てるのかどうか』を考えていた。だから女の子がつっかかってくると、『勝てないのになんで?』と不思議だった」と言うので、私が「あ、それちょっとわかります。私の場合、どの男子に対しても、『こいつと喧嘩したら私は絶対負けるんだ!』という絶望があって、だから武道に走っていたんですよね。毎日手の骨を鳴らしたり、木を殴ったりして手をごつくしようと頑張っていて」と自分のエピソードを披露したところ、美しい田中さんから「皆さん戦うことを考えすぎです」と冷静なツッコミが。

今日は頑張って構成を考えた。前回の構成よりもずっと良くなった、と言われてホッとする。

出版業界にいると、編集者からの「ライターがいない」という嘆きを頻繁に聞く。しかし、ライターがいないということはない。むしろいすぎるくらいいる。この場合の「ライター」というのは、「構成が作れるライター」のことなのだ。一定以上のボリュームを持つコンテンツ内に、メロディを作る技術。文章でそれを奏でられる技術。それをしっかり持っているライターというと、実はこれが結構少ないらしい。

年上の人達と話していると、編集者の世界からも、この「構成を作る能力」が失われつつあるという話がよく出る。昔とは「有効な構成」の考え方自体が変わってきているというのもあるが、やっぱり、皆(業界の人達)が全体的に本を読まなくなっていっていることが原因なのだろうという気がする。

「本を読まない人が多いというのは嘘だ、PCやスマホで、現代人はかつてのどの時代の人よりも文章を読む」という言説がある。それは確かに嘘ではない。でも、「ものを読める」人は着実に減っている気がする。スマートニュースで開いたコラムを2〜3秒眺める、という営みは、やっぱり物語を嗅ぎとることの訓練にはできないのだと思う。

優れた本には、かならず構成の魔法がかかっている。「これの次にこれを読むことになるからこそかかる魔法」というのが、本の中にはあるのだ。その匂いを嗅ぐ能力は、より多く、より真剣に読まなければ多分身につかない。小林秀雄を知らない編集者や、ドストエフスキーを読んだことのない編集者と出会う度に、私はやっぱりひるんでしまうのである。

夜はオリンピックを観戦。吉田沙保里の準決勝戦があまりにも強すぎてひょえーっとなる。

そわそわ

私の場合、満月の前日というのが、心身ともに一番不調になるタイミングである。体がむくみ、集中力が異常に散漫になる。月の引力のせいなのだろうか、毎度不思議だ。馬は満月の夜に一番出産しやすいらしいし、その他満月が生物に及ぼす影響というのは色々言われているが、私もその影響に巻き込まれる一派なのである。これは、月齢カレンダーアプリをスマホに入れるようになってから気づいたことだった。

藤原紀香が「満月ダイエット」をしているという話が、「藤原紀香はヤバイぞ」という文脈で騒がれていたのを思い出す。まあ「ヤバイ」と思う感覚ももちろんわかる。しかし、自分が満月の前日に限ってむくみまくり、精神的にも不安定になっているのを鑑みると、なかなかどうしてその手のアレはあなどれんのである。プラシーボ効果というものもあるし。

それにしても今日のむくみは強烈だった。強烈すぎてジーパンの締め付けに危機感をおぼえ、ユニクロにワイドパンツを買いに走ったほどである。ワイドパンツを一本、スカウチョも一本買った。ライターの女は、締め付けない服装を制服にしないと多分健康を深刻に害するであろう。着替えたらすごく楽になった。今後はこれを制服にしたい。

夕方、集中力の散漫さがどんどん高まってきてこれはよくないと思ったので、ゆっくりできるカフェでランチすることに。しかし辿り着いたところがすごく適当な駄目なカフェだった。一見広くてゴージャスなのだが、サービスは適当だし、店員の学生たちも気がそぞろ。頼んだサラダプレートも、ファミレスのシーザーサラダみたいなものの上にでかいハムが数切れ、あと普通のフランスパンにポタージュスープ、という特にどうということのない一品であった。読んだ本の内容がよかったのが救い。

渋谷で働いていると、「ゆっくり食事のできる場所」を探すのに相当苦労する。そんなのは諦めた方がいいというレベルでもあるし、本当にゆっくりできるところは高い。広島は良かった……(田舎シック)。しかし、これからもまだまだ当分はここで働くわけだから、許容できる場所を探さねばと思う。

夜中、とある文章を書くも、アップするのをやめる。やめてよかったと思う。「これは駄目かもなあ」と思う文章は実際本当に駄目なのだ。アップして三日目くらいで激しく後悔したりする。最近ようやく、その手のよくなさに鼻が効くようになってきた。

夜、今後のことを色々考える。近い未来のことと遠い未来のことなど。

引っ越しが終わったらダンスを習いたい。ヨガやピラティスも考えたけど、もっとエンタメ的な要素のあることがしたい。ベリーダンスか、フラダンスかで迷う。とりあえず体験レッスンに行ってみよう。