山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

青い山脈と微笑ましい話

1日オフィスにこもって漫画を描く。

絵を描いているときは、文章を書いているときと違って聴覚情報を受け付けられるので、大抵映画かドラマを流しっぱなしにしている(前に今市子のエッセイ漫画を見たらやっぱり作業用Movieを流していた)。今日はHuluで「青い山脈」を観た(画面はあまり追えていないけど)。

石坂洋次郎の同名小説が原作の「青い山脈」は、1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回も映画化されている超人気作で、いずれもその時代の清純派人気アイドルが主演をつとめている。名作と名高いのは49年版だが、私が今日観たのは63年版だ。主演はかの吉永小百合、相手役も純情路線で人気を博した浜田光夫。もうひとりのヒロインである島崎先生にも、日活を代表する清純派女優芦川いづみがあてられているし、二番手男役(ってこの書き方では宝塚だな)は若き高橋英樹ととっても豪華。このときの吉永小百合は弱冠18歳でもうめちゃくちゃにかわいい。こんな清らかな、そして健康的なメンツがあろうか……。

ちなみに私は高校時代、石坂洋次郎の小説が大好きで、授業をサボっては読みふけっていた。

石坂洋次郎は、健全かつ先進的な精神を描き続けた作家として知られている。しかし彼自身はその評価に反発も見せたという。私も、「明朗なだけの石坂洋次郎ワールド」みたいなものはまったく信じていない。彼の書くものは全て、一般庶民が、より良い人生のために模索する道程を描いているのだが、そこには時代の、政治的苦悩の声がいつも響いている。注意深く読めば絶対にわかると思う。

青い山脈」もそうだ。この物語は、ざっくばらんに言えば

「ある女子校で、生徒やPTAが『男女交際くらいいいじゃないか派』と『そんなものはけしからん派』でモメたが、もうそんなことでモメる時代じゃないよね、ということで全てが明るくうやむやになりました」

というだけの話である。しかし、私たちから見れば他愛ない「高校生の男女交際くらいいいじゃないか、微笑ましいし」みたいな結論も、終戦直後の日本人にとっては相当なパラダイムシフトだったはずなのだ。今の日本が「男同士や女同士や、その他いろいろな男女間以外の恋愛も認めた方が社会的に健全だろう」という考え方を受け入れるのに試行錯誤しているように、昭和20年の日本人も、「健全な男女交際は、人間のよき精神をなんら損なうものではない」という思想の受容と実践に苦労していたのである。

青い山脈』は、日本国憲法が施行された翌月から連載され、民主主義を啓発させることにも貢献した。また、すでに教育基本法(昭和22年法律第25号)と学校教育法(昭和22年法律第26号)も施行されていたが、『青い山脈』が連載された1947年度(昭和22年度)には学校教育法に基づく学校はほぼ皆無の状況であり、この小説は、従前の中等学校令(昭和18年勅令第36号)に基づく旧制・高等女学校と高等学校令(大正7年勅令第389号)に基づく旧制・高等学校という中で書かれている。
--Wikipediaより。

具体的にあらましを話すと、吉永小百合演じるヒロインは、男子学生との交遊を噂されたために(事実ではない)女子校に転校したという経歴を持つ。しかしその過去の噂と、また別の男子学生との新しい噂のため転校先で嫌がらせをされてしまう。嫌がらせをしている女学生たちは、「男子学生と親しくするような人がクラスメイトにいたら恥ずかしい、母校の名を汚してしまう」と騒いで、「正義」の名の下にまったく悪びれない。その争いを、先進的な考えを持つ若き女教師と、考え方が特に新しいわけではないが柔軟なユーモア精神を持つ校医の沼田がおさめていく、というのがだいたいの流れだ。

女教師の島崎先生は、「独りよがりな正義で他人を貶めることほど恥ずかしい行為はない」と生徒たちに厳しく語りかける。でも、古い考え方にとらわれた女学生たちは、そんな島崎先生も含めて恥ずかしい存在だと排斥しようとしてしまう。これはまさに、「新しい権利」が出てきたときの社会の困難そのものである。話はどんどん大きくなっていき、PTA会で保護者や教師たちが意見を戦わせ、投票によって結論を出そうということにまでなる(完全に政治)。その答弁会の中で、「交際擁護派」と「処罰派」それぞれの意見が飛び出すのだが、この時代の恋愛をめぐる議論というのは、ほぼ女性の人権問題なのだということがよくわかる。

島崎先生が、沼田医師をひっぱたいたということが問題になった時は(ひっぱたいた理由は、沼田が女性の人権を軽んじたことをアレコレ言ってしまったからである)、芸者のとらがこんなことを言って皆を笑わせる。

「女が男をひっぱたくなんて、あたしたちの世界じゃ珍しくもなんともありませんよ。あたくしどもの見たところ、お偉いさんほど女に叩かれて喜ぶ傾向にあると思いますけどねエ……」

あるいは、ヒロインの保護者を装って潜り込んだ大学生の富永が「自分は主観的な意味合いにおいては寺沢の保護者なんです」と理屈をこねる場面。処罰派の男性教師が富永の主張をバカにし、どうにか会を自分たちの思う方向へ持っていこうとしたとき、ある女教師が、男性教師の描いたとんちんかんなラブレターの文面を読み上げて彼に反撃する。

現代の人権意識から見れば問題の多いやりとりではあるが、その前の時代と比較してみると、民主主義的な前進はとても大きいのだ。

「微笑ましさ」は強い。強要すると暴力になるから「微笑ましくあれ」と言い回っては絶対にいけないのだが、微笑ましさを見つけ出し、喜ぶ精神は絶対にいろんな前進の基盤になる。

島崎先生が「そういう微笑ましいお話が、私たちの日常にはもっと必要なんだわ」と言うシーンがある。21世紀の日本にも、必要なのは真に微笑ましい話だと思う。それはツイッターで1万RTされるような「イイ話」ではなくて、日常生活の中の、お互いにしか発見し合えないちょっとしたエピソードのことなのだ。そういうものを見つけられる精神を(そして今だったら安易にSNSで消費しない忍耐力も合わせて)、私は健全と呼びたい。

 

しかし今日の私は全然健全でない。昼飯に星乃珈琲のまずい珈琲とサンドイッチを食べただけで、後は何も口にせず睡眠まで突っ走ってしまった。漫画を描き続けていたので首もおそろしく痛い。明日はゆっくりめに……。