山羊の沈黙

たくさん読んでたくさん書く生活を模索しています。

不協和音

妊娠32週、9ヶ月目に入った。ここから先はゆったり過ごしたいので、手始めに朝活を短縮してみている。

午前中、銀行と役所に行く。市民税の支払いや、国民年金保険の産前産後期間免除手続きなど。そのあと、赤い窓枠のカフェに行ってブランチをする。いろいろ考え事をする気出行ったのだが特に捗らず。ヴァージニア・ウルフを少しだけ読む。

夕方、ニュース類を見ていて落ち込んだ。いろんなトピックの不協和音で頭が痛い。noteのマガジンがあったら書いていたんだけど。

少し気を取り直してから、「A案を支持したらBという悲劇が起きる。Bを食い止めるために自分はAを許容したくない」という主張を持っている人が「A案支持者」を前にしたとき(あるいはその逆)に感じる・表現する怒りや恐怖について考える。

ここでは、A案不支持の人をX・A案支持者をYとする。あくまで、XとYの二人ないし少数の人間たちによる、インターネットを含む直接的なやり取りの中の話として考えたことだ。

X・Y両方とも、相手の言葉を受けたときに激しい拒絶反応を示すことが多い。そしてお互いに「お前はわかっていない」と言い合う。さて双方、自分のネガティブ感情の理由や正当性をどう説明するか。

Xは、自分のネガティブ感情について「悲劇Bの発生可能性が高まったことへの恐怖」「Bによって被害を受けるであろう人たちの尊厳が軽視されていることへの怒り」と説明することが多い。一方Yは、「Bの発生可能性が高まるというのは嘘であり、その言説自体が攻撃である。それが理解されないことに怒っている」と説明するだろう。要はどちらも相手が「事実誤認」をしていると思っているのであり、平行線である。

しかし実際のところはこれ、シンプルに「目の前の人(なりアカウントなり)が自分と同じ意見でない=自分が相手に軽視されていると感じること」への恐怖・拒絶反応ではないだろうか。本当に見ているのは、相手が自分をどう扱うかなのだ。そしてインターネットだと、自分に向けられていない言葉であってもすべて「自分へ向けられたもの」の一つとして解釈した反応が可能で、同時に「自分に向けられたものではない何かのために怒っている・悲しんでいる」かのような表現も可能である。ここが事態をややこしくしている。

お互いに、一番傷ついているポイントには触れない、見ることができないすれ違いがずっと続いているように見える。

パンの幸福

今日も腹の痛い目覚め。

最近激務で帰りが深夜になりがちな夫と、少し距離のあるカフェでゆっくりモーニングをとる。パンが色々選べたので、私はクロワッサンと小さなフレンチトーストにした。あたたかいクロワッサンやフレンチトーストは幸福度が高い。サラダとスープも美味しかったし良いブレックファーストになった。また平日にも行く。

2人で書店などに寄って買い物してから帰宅。最近は出歩くとすぐ眠くなってしまうため、昼前から13時くらいまでドロドロととぐろを巻くように寝た。起きたら夫が鮭のおにぎりとアイスクリームを買っておいてくれていたのでありがたく食べる。夫は仕事が忙しいのにこういう気遣いを欠かさない人なので尊敬する。その後はコーチングのセッションを二件提供。

そんなわけで今日はあまりインプットをしていないが、夜に一橋大学橋本直子氏によるForbesの論考を読んだ。「改正入管法」を巡ってどのような駆け引きがあったか、そして橋本氏の意図と実情がどのようにずれたかを記したものだ。

https://forbesjapan.com/articles/detail/63809

ここに書かれたことのニュアンスはわかる。「A案強硬派(マジョリティを味方につけている)」と「A廃案派(マジョリティを味方につけていない)」の派閥があったときに、強硬派と廃案派の間にいる人がよく認識する現象のひとつだと思う。これまでにもいろんな政治活動の関係者から似たような話を聞いている。また、橋本氏のような彼ら“狭間の人”が、こうしたことを疲労や少なからずの怒り、失望などとともに語り、それによって「廃案派」の反発をかい、最終的に「強硬派」の方に事実上押しやられるのもしばしば見てきた。つまり、強硬派から見れば“狭間の人”とは利害関係が衝突しきらないので彼らをそこまで邪魔にする必要がない。しかし廃案派は“狭間の人”と完全に対立関係が成立するため、根本的に共闘が難しいのである。

しかしこの体験を“狭間の人”がストレートに書くこともまた、戦略的・政治的にうまく機能しない印象がある。廃案派がこういう発信に反発し、“妥協”的な案に余計拒否感を持つケースをよく見てきた。また強硬派は強硬派で「そらみたことか」という意見発信をしがちである。これもまた、リベラルが負ける仕組みの一部なのかもしれない。もちろん狭間の人が悪いわけではない。

夏のそらがみえる

引き続き体調の悪い目覚め。最近、夢を見ても寝起きの身体の不快感ですぐに忘れてしまうのが残念だ。

マンションの工事が始まってしまい、私の嫌いな金属音が鳴り響きまくるのでたまらず外出。少し遠いところにある大きな図書館へ、前から読みたかった資料本を読みに行くことにする。買うとなると古本で二万円くらいになってしまうが手元に置いて熟読するほど必要な本でもなく、国会図書館などに行くことがあったら出してもらおうと思っていたのだ。

それにしても腹が突っ張って痛くて困る。徒歩20分先の最寄り駅に着いた時点でなんだか疲れたのでマクドナルドでアイスティーを飲んだ。そこから電車を乗り継ぎ、かなりの坂道を登ってなんとか到着。

本を書庫から出してもらっている間に詩集でも読むかと思い、適当にエミリ・ディキンソンを引っ張り出すついでに近くにあった『スプーン・リヴァー詩集』(エドガー・リー・マスターズ)も積む。ディキンソンの詩がすばらしいのは当然として、20世紀初頭に書かれたらしい後者も非常によかった。著者の住むイリノイ州にあると設定した架空の小村スプーン・リヴァーに住む市民たちの、小さな独白をひたすら積み上げる体裁の詩集である。“リベラル”連中に毒を吐いている者、過去を追想している者、妻への怒りを吐いている者。市民たちのなんてことないしかし多様な声が、現代化するアメリカの鬱屈や未来への予感を織り上げる。ポリフォニックで物悲しい、私が思う“民主主義”の詩だった。これは知ることができて良かった。

夜はU-NEXTで、チェコスロバキアの政治家アロイス・ラシーンの伝記ドラマ「滅亡した帝国」を少し観た。私の浅い知識では理解が追いつかず、観ながら逐一ネット検索をする。ラシーンハプスブルク家に支配されていたチェコ(民族)の民族運動を支持し、第一次世界大戦後にチェコスロバキアの建国を主導した人物である。その後大蔵大臣に就任した彼は、国内経済の安定のため緊縮政策を繰り返して国民の反発をかい、1923年に暗殺される。この頃の中欧の政治模様についてはさっぱりだ。まあ、一旦ゆるっと眺めておこう。

あと60日

出産予定日まであと2ヶ月をきった。なんとなくだが、スマホで書ける程度の簡単な日記くらいは残してみることにする(続かないかもしれない)。

今日は体調の悪かった日。明け方のうちに、胎動とのぼせとふくらはぎのこむら返りの三連パンチで起こされたせいだ。

朝活で『国会学入門』の続きを読み、朝食と家事のあともう一度寝る。非常に寝苦しかったがなんとか3時間ほど眠れた。起きたときにあまりに汗をかいていたので驚いた。そのあとは昨日から読んでいたアガサ・クリスティを一冊読了。買い物にも出る。

夜、気分が悪くて動く気がしないので映画「エゴイスト」をU-NEXTで観た。丁寧であたたかい映画だった。最後のやりとり、あれを素直に言えたら、そしてあれを言われて微笑めたら、それはもう愛だ。

 

自然体

 ひさしぶりに渋谷の美容院に行く。
 担当のN氏は私と同世代の陽気な男性である。貸切状態のフロアで、二人でずっと新型コロナの影響の話をした。店はこの自粛期間中も営業を続けていたが、先月の売上は平均の半分程度だったらしい。N氏はずっと「厳しいッスね」を連発していたが、私が最近あった良かったことを話したところ、すぐさま「わ、そーいう話が聞きたかったんスよ!」と笑ってくれた。
 美容院のあと渋谷を歩く。百貨店などはのきなみ閉まっているが、それでもたくさんの店が営業しており、人出もかなりのものだった。ロフトで文房具やを買い、ZARAで靴を見る。レターセットのコーナーにあじさいや朝顔をあしらったデザインの一群があり、そういえば初夏なのだとしみじみ思う。今年は本当に季節感がないまま時が過ぎていく。せめてもの慰めに、夏の花の描かれた封筒を買った。
 地元に戻ってからファミレスにこもる。漫画の原稿を進めるはずがたいしてできなかった。集中力がもたない。体調コントロールのために飲み始めた低用量ピル(今話題の)の影響も少なからず感じる。体がむくみっぱなしで落ち着かなくて、普段の生理前の状況がずっと続いている感じなのだ。遅くとも2〜3シート以内には収まるという話だけど、最悪あと2〜3ヶ月はこれが続くのかと思うとやや憂鬱である。
 そのまま会社のSlackを見て、やらなければならないことの多さに突っ伏した。

 亡くなった木村さんについては私が言えることなど何もない。私がずっと考えているのは、「本当にみんな、リアリティ番組に『リアリティ』を、そして面白さを感じていたのか?」ということだ。
 私はあの番組にリアルもリアリティも感じていなかったし、出演者の言動、スタジオの芸能人たちのコメント、視聴者の感想、どれをとっても「生」に見えたことはなかった。そしてそもそも、「生」でなければいけないとも思わない。だけど世の中には、「生」であること、とりわけ「そう見える」ことが、「作り込まれた物語」であることよりも重要であるという価値観があるように見える。
 このことから思い出すのは、小劇場演劇の芝居だ。
 私が小劇場演劇に関わっていた10数年前は、局所的に「自然体の演技」が流行っており、「芝居らしい芝居」が忌避される傾向にあった。それで一部の演出家は盛んに「演じるキャラクターの気持ちになりきれ。そうすれば芝居臭い芝居ではなく、自然な動きができる」と言い、私も一度役者として出た舞台では先輩にそのように指導された。
 しかし私はまったく納得できなかった。「キャラクターの気持ちになりきる」というのは、意識の表層的な部分の話である。その気持ちのみをベースに動いたところで、身体は「自分の人生が作り上げた癖」で動くだけだ。つまり私がどれだけ跡部景吾の気持ちになりきろうと、私の体は小池みきのシステムでしか動けないということである。
 跡部を例に出したのは極端だが、私がこのとき演じていたのは実際に男性キャラだった。20歳の女が、30代の男性の役をやっていたのである。しかも女性だけの劇団の男役というわけではなく、リアル男性の役者に並んでの男役だった。この状態で、「キャラになりきった気持ち」で演じたところで「自然」に見えるわけがない(だから「なりきれ」系のアドバイスは無視した)。
 私はその手の「自然体」信仰が嫌いだった。「自然」は「作り物」より価値が高いという無批判な思い込みのことはほとんど憎悪の対象だった。自然とは何か、現実とは何か、「人間がそれをリアルだと思うこととは何か」、について真剣に考えていたら、「気持ち」にばかり拘れるわけがない。
 ある種のリアリティ番組にも、そういう疑問を感じてしまうところがある。「ナマっぽい」こと、「むき出しっぽい」こと、そんなイメージに合致する画を作り上げるためのさまざまな工夫、努力。人が罵り合っていたり、泣いたり、嫉妬を顕にしていたりすれば「現実の人間ドラマ」の雰囲気が醸せるという判断のすべては、なんらかのイメージをベースにしていると思う。
 そういうイメージの源もまたフィクションであり、リアリティ番組の提供している快楽とはつまり、「イメージと、目の前の『現実』もどきが合致する」ことではないかと思ったりもする。
 そういう快楽があってもいいとは思う。だけど私は、自分のイメージを超えるものが好きだ。