考える引き出し

小池みきがなんでも書くところ・タンゴ練習記録多め

妹といっしょ。

昨日は夜中の3時半ごろまで原稿をしていた。が、納得できずボツにする。

4時前に寝て、今日は11時前くらいに起床(ひどいな)。原稿をしまくったあとはひどくリアルな夢を見る。今回見たのは、ひとつは、私が話している最中にわりこんできて自分の話を始めた女性に、「どうして私が話しているのに自分の話を始めるんですか? なんでそれをしていいと思ってるんですか? 不愉快なんですが」とはっきり言い、女性が「……代理店側の人間だから」と気まずそうに返してくるというもの。そしてもうひとつは、タンゴ教室の知り合いのおじさまに「君は見たものをちっとも覚えていない、良い加減なことを言っているだろう」と糾弾されるという夢だった。前半はすっきりし、後半にはドッキリした。気を引き締めて生きていきたい……。

で、起きて五秒後には椅子に座り、原稿。集中したので3時間ほどで仕上げることができた。書き直してよかった。いまの方がずっといい。

夜は、昨日から泊まりに来ている妹とハンバーグ屋で食事。向こうはハンバーグセット、私はステーキ丼を食べる。

妹が営業トークが苦手で悩んでいると言うので、私流の口八丁手八丁メソッドについて話したらなんだか感心された。

妹「みきは昔からそういうのが得意だったよね。私は苦手」
私「小池家で、そういうのが得意なのは父と私と弟だな。自分に酔うタイプだし、ハッタリ利かすのも嫌いじゃない」
妹「母と私は無理だね。裏表がなくて素直だから」

小池家は、素直組と陶酔組に分かれるのであった。

帰宅後、妹が買ってきた、去年のセクゾのソロコンDVDを一緒に鑑賞。私はセクゾの面々には詳しくないのだが、妹が詳細に解説してくれるので面白く観た。みんな個性豊かでかわいい。ちょっと目を離した隙に、マリウスがめちゃくちゃでっかくなっていたのでたまげた。DVD収録当時17歳ということだけどもう大人の男だわ……いつまでも可愛い子扱いの演出をしていてはいかん気がする。

佐藤勝利くんはとにかく顔が美しく、オーラがある。腰から下が細いのが残念だと言ったら、「天がそこだけは与えなかったんだよ……」と妹。菊池風磨くんはとてもつるつるしていてかわいく、おしゃれだった。中島健人くんはなんだかキャラが面白かったので、言いたいことを言いまくってしまった。

私「なんかちょっと縮尺を変えた斎藤工みたいなんだけど」
妹「それみんな言ってる」

私「この子は首が短いから丸襟のシャツを着ているべきだな、冨樫の描く昔のイラストみたいなビジュアル」
妹「中島くん、幽遊白書めっちゃ好きだよ」

私「顔のレイヤーがめっちゃ前にある気がする」
妹「間近で見たことがあるけど実際顔がとにかく濃かったです」

私「うまくいけば東山紀之みたいになりそう」
妹「中島くんめっちゃ東山リスペクトなんだよ」

中島くん、持っているデータが全てオーラに顕在化しているのでは……。

で、松島聡くんは普通にめちゃくちゃ上手い子だと思った。しかし、それを言ったら妹が死ぬほど暗い顔をする。

「私も松島がダントツで技術的には高いと思っているんだけど、彼はマーケティングの関係で『歌もダンスも下手なヘタレ』キャラにされてるんだよね……」

いやいやこれで歌もダンスも下手設定っておかしいのでは??? と思ったのだが、ともあれ松島くんのことはそのように扱うある種の文化が定着しているらしく、もうどうしようもないんだそうだ。ジャニーズ界はよくわからぬ。

妹は、全国トップレベルのブラスバンド部で超スパルタ練習を生き抜いてきた元クラリネット吹きで、音楽に対する造詣がなかなか深い。そんな彼女が言うには、松島のリズムの取り方は裏拍寄りで、ジャニーズとしては珍しいタイプなんだそうだ。

で、いまは夜行バスに乗るという妹を見送って帰ってきたところである。妹は基本的に私に対して塩対応なのだが、ときどき「お前のことは認めている」的な発言があるので面白い。

今回言われて嬉しかったこと。

「教える仕事をした方がいいと思う。みきは昔から説得力があるよね。自分がやってきたことしか言わないから」

その妹の言葉に、私は説得力を感じるのであった。認めてもらえるのは嬉しい。教える仕事。ゆくゆくはチャレンジしてみたい。

 

朝 ミニトマトとゆで卵、ブロッコリーのサラダ 納豆
昼 蒸しパン ケンタッキーのナゲット
夜 ステーキ丼

【タンゴ雑談】困ったおじさんを撃退する話術

教室の女先生との会話で忘れられないものをメモる。先日、「ミロンガでちょっと困ったおじさんに遭遇した」と話したときのこと。

女先生「初心者はそういう人の被害に遭いやすいんだよね……」
小池「うーん、じゃあ早く初心者と見抜かれないような雰囲気にならなきゃ」
女先生「というか、初心者だってことはあまり言わない方がいいのかもしれないね」
小池「でもそれ、聞かれたらなんて答えます?」
女先生「ブエノスで5年、とか(真顔)」

 ブエノスアイレスで5年!!!

 シュールな答えにそのあとずーっと思い出し笑いをしていたんだけど、女先生自身はそれほど面白いことを言ったつもりもないようで、そこもまたグッドなのであった。

カミナータはたのしい(レッスン20回目)

とうとうレッスン20回目。

今日は前半のみで6人。友達のWEBマーケター、中島なかじちゃんを体験に引っ張り込んでのレッスンでした。

 

今日は前半、「コンビネーションをやります」ということで「後ろオーチョ→パラーダ→右回りのヒーロ」のセットと、「サリダ→前オーチョ→アメリカーナ→左回りのヒーロ」のセットを練習。

アメリカーナの解説、初めて聞けた。20回通って、3、4回目のフリーダンスからガンガン出現していたアメリカーナ。ユージン先生たちの動画で見て知ってはいたけど、やっとうちの男先生から教えてもらえたわい。

男先生から指導されたのは「床をもっと軽く踏むこと」と、アメリカーナに入るオーチョをボレオのときくらいなめらかにすること。でも「欲を言うならこう」という言い方だったところを見ると、最低限のところはクリアしていたっぽい。右手のテンションを注意されなくなってきたぞ……!

そのあと、女性同士でのカミナータのリード・フォロー練習もした。女先生と組んでリードをやったとき、自分なりにインテンションに気をつけてやっていったら「うん、みきさん上手ですよ。ちゃんと胸の中心点を離さないで動けていましたね」と笑顔で言われたので超舞い上がった。嬉しい。カミナータの練習をしていた甲斐があった。

シュートの練習を楽しむ桜木花道がごとく、私はカミナータとオーチョの練習を楽しんでいる。瞑想っぽくて心が落ち着くのである。毎日やりたいし、教室でやるときもかなり集中できていると思う。この間、重りベルトを腰に巻いてみたおかげでなんとなく理想の状態はイメージできるようになって、不安定だった後ろオーチョでもコケなくなってきた。あとは胸の位置を動かさないこと、右肩を開かないこと、床を軽く踏むことが大きな課題。毎日初心にかえろう。

男先生とのフリーダンスでは、踏み足に気を取られて出だしミスったものの、あとはそこそこついて行けた。今日はあんまり緊張しなくて、すこーし楽しむ余裕があった。ボレオのときに先生がうんうんと頷いているのが見えたので、たぶん前よりできるようになってきたのだと思う。連続オーチョのリードをとらえられなかったのが失点。「こちらの足の動きに惑わされないようにね」とのアドバイス。もっと純粋に体重移動の導きを信じよう。

 

レッスン後、中島さんに「みきさんが描いた先生たちのイラストを見て、『女の先生の絵がディズニープリンセスっぽい』と思っていたんですけど、実際にディズニーっぽい人だったのでなるほどと思いました。きゅるんってしててかわいいですね……」と言われてムフフフとなる。そーなの。うちの先生たちどっちもかわいいんだよ……。

どうでもいいからどうでもよくない

極端で正反対な気持ちが常に同時並行で走っている。それが私の通常モード。

死ぬほど働きたい気持ちと呼吸以外のなにもしたくない気持ち、目立ちたい気持ちとまったくの無名の人間でありたい気持ち。相手を抱きしめたい気持ちとぶん殴りたい気持ち、生きていたい気持ちと眠ったままでいたい気持ち。それらすべてがいつでも頭の中に同時に存在していて、フォーカスしているポイントも一秒ごとにめまぐるしく移り変わっていく。でもその間もいつだって、目の前のそれと反対の何かが後ろから睨んできている感覚を忘れられない。なんでかわからないけど、子どもの頃からこういう「何かと何かを同時に感じている感じ」というものに追いかけられていて、ただぼんやりしているだけでじゅうぶん疲れるのだ。これを指して母は私のことを「考えすぎ」と言うのだが、考えすぎというより感じすぎているんだろう。覚醒剤に興味をもてないのは、こういう世界観をさらに拡張することにまったく興味がないからである。

私は、社会のあらゆる問題を根本的にはどうでもいいと思っている。そしてだからこそものすごく必死になれてしまう。どうでもいいということは、まったくどうでもよくないということなのだ。私にとっては。どうでもいいことだからムキになるし、戦えるのだ。半端にどうでもよくないと思っていることについてはそんな風になれない。ただ、ムキになって戦うことができるそれについても、必死になればなるほどつまりはいつもどこかで「どうでもいいなあ」と思っている。

この感覚はなかなか人に伝えられない。下手に伝えると「なんて冷たい人なんだ」と思われておしまいなので積極的に言うことはない。でも、この感覚があるから避けられるリスクがかなりあるな、ということも最近よく感じる。それが良いことだと思っているわけではない。「これはどうでもよくない」というポイントだけにしがみついている人の無防備さを見ると、自分がものすごく小狡くてしぶとくて嫌な奴に思える。まあ、それが自分だからしょうがないんだけど。

朝 なし
昼 ごはん 車麩 サラダ スープ
夜 ごはんの上に鳥ささみ・ネギ・ピーマン・卵・ミニトマト

わかる人にはわかる

「おれはこう見えても喧嘩のプロだ。敵が近づいてくると第六感でビンビン感じるんだ」

というような、ジャイアンのモノローグがある。劇場版「アニマル惑星」に出てくるセリフ。正確な言い回しは忘れたが、だいたいの内容は合っていると思う。

とある謝罪文を読んで、私がまっさきに思い出したのはこれだった。

これはまったく理屈ではない話なので真面目に受け取ってもらわなくてもけっこうだが、私の目にはこの文章が誠意ある謝罪には見えない。匂う。計算された文章のにおいがする。

私も、こう見えても売文業のプロだ。

計算ありきで書かれた文章を見ると第六感でビンビン感じる。「掲げているテーマのために取材して書いたように見せかけて、実はまったく違う目的で書かれたWEB記事」なんかはリードの段階でピンとくるし、ライターが何かの事情でごまかした部分などもかなりわかる。もちろん、私の書いた文章も、同業者にはそういう目で見られているはずだ。

で、件の謝罪文には、もろに「誠意ある謝罪文としての体裁」を考えたあとの、焦げ跡のような匂いを感じる。

この匂いに、私はとくに敏感だと思う。なぜなら、この手の文章を昔、私も一度だけ書いたことがあるからだ。自分のためではない。会ったこともない他人のためにである。

無名とはいえないその人のために、私はその文章を書いた。どうしてそんなことになったのか、いろいろ複雑な状況だったので簡単には説明できない。自分なりに納得して引き受けたことでもある。ただ、もう同じようなことは二度としないつもりである。生涯で一度だけ、というつもりでやったことだった。

そのとき私は、自分の文章力を総動員して、「誠意」のコーティングをした。読む人が読めば絶対に、それが本物の誠意でないことはわかったと思う。でもその時私がひきうけたのは、本物を見抜く目を持つ人ではなく、それ以外の人たちを納得させることだったから、そのように書いたのである。

結果として、それは社会においておおむねきちんと機能した。ただ、あくまでメッキなりの機能だったということも添えておく。メッキの誠意なのにこんなに機能してしまうのか、という怯えと、やっぱりホンモノでない以上ここまでなのだ、という安堵と両方をそのときの私は感じた。

その感覚を今でもしっかり覚えているから、そういうレベルで書かれたもののこともすぐわかるのである。「それっぽく見えるもの」がどういうものかを、ある種のライターや、ブロガーや、活動家や、政治家はわかっている。わかって、ある狙った地点に槍を放るように書くことができる。でもそれは、わかる人同士で見ればわかる程度の行為でしかない。その言葉は、或る人間の心の中の真実を削り出すような、本当にシリアスな慟哭や歓喜にはなり得ない。

わかる人にはわかる。ものを書くのであれば、そのことだけはわかっていないといけない。あの謝罪文を読んで考えたのはそのことだけだ。