考える引き出し

小池みきがなんでも書くところ・タンゴ練習記録多め

切断と切実

 冲方丁の『マルドゥック・ヴェロシティ』という小説に、それはそれはむごい拷問死の描かれるシーンがある。拷問の最中自体は描かれないが、拷問の果てのとどめを刺すところがそれなりにしっかり書かれており、メインキャラクターのひとり(一匹)であるネズミのウフコックは、その拷問を取り巻くあらゆる負の感情を匂いで察知して嘆き悲しむことになる。殺されたのは、ウフコックにとって決して遠い関係の人物ではなかった。
 ウフコックはその後、一連の拷問を記録した映像を繰り返し見続ける。何かを確かめるように。それを経て、彼の“鼠生”は違うフェーズに突入する。彼の内面は、その期間を経て大きく変わってしまう。「そういうふうにあってはならなかった死」には、とてつもなく大きな力がある。これはもちろん、良いとも悪いとも言えない力だ。重力とか、風力とかと同じで、ただ大きいというだけである。

 何についての話かというと、ジャマル・カショギ氏の死について書きたいのだ。

 私は中東周りの政治的事情に疎い。彼がなぜそんな風に殺されなければならなかったのか、いろいろと記事を読んでみてもいまだわからないでいる(マスコミもまだわかっていないみたいだけど)。ただこれだけは言える。そんな風に殺されていい人間は地上に一人もいない。

 この二日というもの、これに関するニュースを大量に目にした。私は今こなしている仕事柄、ニュース記事にはある程度目を通さざるを得ないので、完全に避けることはできない。当たり前だが、目に飛び込んでくる単語でもっとも強烈なのは「切断」だ。「生きたまま切断」という言葉を、この48時間のうちに何度認識しただろうか。しまいには、まったく別の記事や原稿で「切実」という単語を見かけるだけでも、「切断」という言葉を思い浮かべる始末だった。
 正直、ずっと鬱々としていた。あまり考えないようにしていたし、SNSでも言及しないと決めていたのだが、頭の隅からどうしても去らない。Apple Watchに一連のことが録音されていた、ということも含めてとにかく辛かった。いろいろなことを想像するし、思い出してしまう。しかし「そうするしかない」ということもわかっていた。繰り返し繰り返し、このことについて考えるしかないのだ。繰り返すごとに、それが私のなかで「私の物語」化し、フィクションとしての濃度をあげていくとしても。

 実を言うと私は、この世の何よりも「拷問死の話」を恐れている。生きたまま苦しめられ、凄まじい恐怖と苦痛のなか殺される……というストーリーや言葉がものすごく苦手だ。ホラー映画や虫や人間の死体そのものといったものはほとんど怖くないのだが、「拷問死」はただただ怖い。たとえフィクションの話であってもだ。現実の話として聞くときはもちろんもっと怖いし、つらい。
 原因はよくわからない。私のなかで有力なのは、小学校低学年の頃に見た映画、「レッド・ブロンクス」に出てきた拷問のシーンである。街のチンピラが3人捕らえられて、尋問のためにそのうちの2人がパルプ機に頭からつっこまれてミンチになるのだ。
 今でもよく覚えているのだが、このシーンが私は失神するほど怖かった。「とらえられてから、パルプ機につっこまれるまでの気持ち」を克明に想像してしまって泣いたし、それから度々思い出しては恐怖に苛まれた。以降、私は今にいたるまで「むごい殺し」のシーンがフィクションであっても基本的には苦手である。どのくらい苦手かというと、小説の『ハンニバル』や『レッドドラゴン』のアレやコレのシーンは冷や汗をかきながら超スピードで読んだし、映画「スワロウテイル」で江口洋介が部下にヤクザの首をちょん切らせるシーンですら全力で目をつぶるくらい。韓国映画を見る時には相当気合がいる。
 しかし、歳をとるにつれて知ったのは、現実に行われてきた拷問(やそれに類する残虐な行為)は、「レッド・ブロンクス」よりもっともっとひどい、ということである。本を読むのが好きだと、そういう事象を知ることは避けられない。古代中国の拷問、イギリスの魔女狩りナチスドイツが行った人体実験などなど、歴史のどこをどう調べてもひどいエピソードが満載だし、知る度に思考停止したくなった。パルプ機に突っ込む方がまだ、死ぬまでの時間が短いぶん親切だな、と思わざるを得ない話があまりにも多い。そして重要なのは、21世紀も、そこから遠く隔っているわけではないということだった。

 2004年、私が高校生のときに、「イラク日本人青年殺害事件」が起きた。アルカーイダ組織を名乗るグループによって、日本人男性香田氏が殺害された事件である。アラサー以上の年齢の人間なら覚えているだろう。
 彼は首を斬られて殺された。「生きたまま切断」されたのだ。そして、その様子を映した動画は世界にばらまかれた。まだスマホ文化こそなかったものの、すでにインターネットが発達していた時代だ。動画が広まるスピードは早かった。
 私の通う高校でも、この動画は話題になった。男子がおおぜいでガラケーを囲んで、きゃあきゃあ騒ぎながら動画を見ていたことを今でもありありと思い出せる。誰が見ていたか、誰がどんな顔をしていたかまで。ほとんどの男子が笑っていた。漏れ聞こえてくる言葉は「やべえwww」か、「小さくてよくわかんない」かどっちかだった。
 人が生きたまま首を斬られている映像を、みんなが笑いとともに見ているーー頭でうまくその状況を処理できず、ものすごい気持ちになった。見て後悔した男子もいたのかもしれないが、今となってはそれぞれの感想はわからない。
 ヨーロッパでは、19世紀の後半になるまで公開処刑は一大エンターテインメントであり、楽しみで興奮しすぎて失神するご婦人なんかもいたという。それを思えば、これは人間の変わらない姿なのだとも言える。しかしながら、私にとってはどうしても受け入れがたい光景だった。彼らの笑いが、たとえ「防衛反応」としてのヒステリックな笑いなのだとしても。お前が一回そのことで笑うごとに、私も含まれたこの世界の何かが痛めつけられるんだ、と私は真剣に思っていたし、今でも当時のことを思い出すとやっぱり心が傷つく感じがする。

 あれから15年近く経った。「誰かが悲惨な死に方をする」という出来事自体はまったく世界から駆逐されていない。毎年毎月、誰かの死が報道される。病気で死ぬ人がいて、事故で死ぬ人がいて、そして生きたまま切断されて死ぬ人がいる。そして、ちょくちょくそれらの出来事を知る度に、彼らがその身で味わった苦痛や恐怖の、100000000分の1くらいの苦しみを私の心も負う。
 当たり前だが、「苦痛に満ちた死」を、自分が理解できているとは思わない。たとえ誰かの首が斬られるところを直で見たとしても、動画で繰り返し見たとしても、あるいは私自身がそうされることがあるとしても、それでもきっと理解しきれないと思う。「インパクトのある報道によって知った死」ばかりに優先的に衝撃を受けている自分を、ミーハーだなと思ったりもする。
 でも、この本当に小さな苦痛こそが、私のような呑気に生きている人間と、ジャマル・カショギ氏のような人たちの間にある”紐”だ。ものすごく細い紐だけど、それをひっぱると、私はいくつかの死について考えることができる。
 ものを書く仕事の果てにも死はある。起きてはいけないことだが、起きることなのだ。ブロガーのHagexさんだって刺殺されたではないか。私が今生きているのはただ幸運なことだし、恋愛と猫と食べ物の話だけ書いていれば死なずにすむというものでもない。
 中東に比べればあまりに平和なこの日本に住む人間が、カショギ氏の死から何かを得ようというのは傲慢なのかもしれない。でも私にできるのは、この鬱々の底にある細い紐をたぐって、あさましく何かを得ようとあがくことだけなのだ。生きたまま切断されるということを、それがジャーナリストという仕事が(おそらく)もたらしたのだということを、ウフコックの10000分の1くらいの誠実さでだろうけど、私も繰り返し自分の身に刷り込んでいる。

 カショギ氏の婚約者は、ニューヨーク・タイムズへの寄稿でこのように書いている。

今日この日、彼の遺志を継ぐジャマルが無数に誕生することを願ってやみません。ジャマルの思いと志に共鳴する人はトルコ、サウジアラビア、そして世界中にいるはずです。

 遺志を継げるとは思わない。でもこれからの私の人生の中に彼はいる。彼の死について知った私が、この先まだしばらくは生き続ける。より殺されにくい国にたまたま生まれた文章書きの人間として、何ができるかを考えようと思う。

longtailworld.blogspot.com

マルドゥック・ヴェロシティ〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

マルドゥック・ヴェロシティ〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

 

ダウントン・アビーにハマりすぎて時空を超えた

 タンゴ日記以外ろくに書いていなかったのは、この一週間ほど、イギリスのドラマ「ダウントン・アビー」にハマり狂っていたからである。

見てみたらやっぱり最高すぎて、気を強く持たないと全話一気見をしてしまいそうで恐ろしい。一日1話か2話、寝る前に見るだけに留めたい……。今シーズン1を見終わったところ。

  12日の日記にはこう書いているわけだが、「一日1話か2話」は案の定無理だった。無理だった結果どうなったかというと、実はもう全話見終わった。全60話近くある「ダウントン・アビー」を、十日そこらで完走してしまったのである。
 仕事もしていたのにいったいどうやったんだ? と自分でも不思議だが、「睡眠時間を削る」「起きた瞬間から寝る瞬間までの、仕事時間を抜いた隙間時間のすべてをここに投入する」ということができればどうやら可能らしい。この勢いで英語の勉強なんかができればな……。
 この「一気見しないと気がすまない病」は子供のころからで、治る気配というものがないから困る。見ると決めたら、他のすべてを犠牲にしても突っ走ってしまうのだ。これのせいで7歳のときから徹夜の常習犯だし(おままごとや読書で徹夜!)、中学高校は新作のゲームが出る度に学校を休んだものである。で、これが仕事で発揮されるといとも簡単に体を壊す。いや、本当は趣味の方でも体を壊す可能性はおおいにあるし、実際壊しているんだろうからやっぱり良いとは言えない体質である……。

 まあそんなことはともかく、「ダウントン・アビー」、本当に面白かった。戦争、格差、労働、マイノリティ問題、愛に恋、嫉妬、生と死、老い、憎しみと和解。人間ドラマをつくるあらゆる要素が、ひとつの家のクロニクルを通じて描かれる。全体的には気軽に、穏やかに見られるトーンなものの、笑えるところも泣けるところもたくさんあった。家族ものの小説が好きな人には心からおすすめ。私の好きな作品で言うと『若草物語』『嵐が丘』『カラマーゾフの兄弟』『高慢と偏見』『分別と多感』『楡家の人々』『抱擁、あるいはライスには塩を』あたりだろうか。
 細々語ると長くなるから内容については今回は触れないけど、これは結局は、シンプルな人間賛歌の物語だ(クリスマスの宴で終わる物語は人間賛歌のドラマに決まっている)。そして人間賛歌に大切なのは「赦すこと」なんだと改めて思った。
 このドラマでは登場人物の誰もが、それぞれどこかのタイミングで「許す/許される」試練をくぐることになる。ここを踏み越えられた人間が得られるものの尊さ、許しが行われたコミュニティの絆の深まりよ。これがない人生そして社会はどれだけ絶望的なものだろうかと、昨今のいろんな出来事をふまえながら考えてしまったのでした。 

 昨日は夜から明け方にかけてずっととある原稿の修正作業。それを経た今日はようやく、多少ゆっくりの一日だった。午後にカフェで書き物をし、夕方は銀座の方で買い物。無印良品ユニクロを久しぶりにじっくり見て、そのあと服屋を回ったがものは買えず。そろそろ秋服をちゃんと揃えないと。
 なお先日から、普段使いのバッグを、コーチのハンドバッグから無印良品のトートバッグに変えた。最近話題のマチを広げられるやつではなく、PC入れのついた普通のトート。なかなか使いやすい。これなら、汚すことや傷めることを気にせず使い倒せそう。

 さて、明日からまた忙しいぞ。

www.muji.net

王子さまといっしょ(レッスン41回目)

 レッスンを受ける前に、本屋で2018年前半の占いムックを立ち読み(たしか鏡リュウジのやつ)。すると、「山羊座のあなたの、今年前半のキーワードは『情熱』です。恋愛に限らず、何かに情熱を捧げるでしょう」というようなことが書いてあった。こりゃ間違いなくタンゴのことであろう。

 というわけで情熱のタンゴレッスン。前半5人、後半3人。レッスンも40回代に突入。コマ数的にはもう70コマくらい受けているはず。情熱!

 前半は、とにかくカミナータの練習。いつもいつも書いているけど、やっぱりこれが一番難しい! だいぶ慣れてきたものの、まだ男先生に対してのアブラッソのベストポジションをつかみきれていないのだ。バナナのように反ったまま後ろにドタバタ歩いてしまう。おかげで着地が近く、早い。

男先生「もうちょっと軸足でちゃんと床を押して。遠くにつま先をつけて粘って、男性よりも遅く着地して」

 先生たちの要求が次第に高くなってきているのでこちらも必死。女先生には「もっと顔近くていいよ」と言われる。なんというかやっぱり、男先生と顔くっつけるのにはまだ抵抗があるんだなあ……自動的に恐縮してしまう。恐縮しない私になりたい。
 今回は、2回のフリーダンスも全てカミナータだった。ステップは無し。ひたすら歩く。うまく着地できるか、うまくスピードを合わせられるか、ということが気になって気になって(よくない)、だんだん呼吸が止まってしまう。難しかったわ……「最後の方はよくなってましたよ」と言われたけど。
 どうも腰をもう少し落とさないと、膝がつっぱったままになってしまうみたいだ。腰は落とし、骨盤は安定させ、首は伸ばし、肩は落とし、手の力は抜く……うう……。

 後半は、3人しかいなかったのでじっくりめにできた。女先生の指導で、骨盤の角度を保ったまま動く練習をする。

女先生「股関節と膝、足首の力を全部ゆるめられるポイントがあるの。そこに立つことができればなんでもできる」

 私が今なんとなくそれっぽく立っている場所は、「一見楽そうに見えるけど実は股関節の力が抜けない場所」なんだと言われた。これはちゃんと探し当てたいし、そこに立てるようになりたいぞ……!!!!
 フリーダンスは二回。いつものごとく応用技をかまされて何度かヘマしたものの、できる部分はできたと思う。ステップがあるって気持ち的に楽だな……と思ってしまった。

 今日のレッスンで面白かったこと。休憩中、アルゼンチン人のダンサーと喋っていた先生たちが、戻ってきて笑っている。何かと思ったら

女先生「男先生がね、『キミがpríncipeか』って言われてたの笑」
男先生「前に××(別のダンサー)にも言われたんだよね……(赤面)」

 私も知っている某ダンサー氏が以前から男先生にpríncipe(プリンシペ=王子)というあだ名をつけており、それを他の人たちにも言いふらしているらしいのだ。
 そのダンサー氏は、私が最初にミロンガで会ったときも、英語で「ああ、君は○○(男先生)に習ってるのか。彼のこと好きだよ。王子様っぽいよね〜」みたいなことを言っていたし、その次に別のミロンガで先生たち交えて会ったときも、スペイン語で「王子はいつもレディに囲まれて……」というようなことを言っていた(らしい)。お気に入りのコンセプトなんだろう。

男先生「まあ、その、ありがたいことですね」

 これからもついていきます、殿下!

足を浮かせない(レッスン40回目)

 今日は一コマ。4人。男女2人ずつでバランスよし。新人M氏、まだ初めて短いながら初級ステップに果敢に挑んでいた。

 基本の初級ステップを練習。アドルノを入れた3つのステップと連続サカーダ、あとカミナータ・ポル・アフェーラ。ずっと「なんとかアフェーラ」としか記憶していなかったこれが、カミナータ・ポル・アフェーラだということをようやく認識できた。
 「por」は「for」みたいな意味で、「外に向かって歩く」ということらしい。なるほどね。私はサカーダで足が浮き気味になるらしく、「もっと下向きに」と注意を受ける。なぜ浮いてしまうかというと、股関節と膝が突っ張っているからみたい。あとは足首が硬いという話をされた。先生たちのようなやわらかい足首になるまではどれほどかかることか。
 男先生とのフリーダンスでは「息が浅くなっている」という注意を受ける。そうだろうとも。毎日原稿をやるかダウントン・アビー を見るかしかしていないのだ(駄目な生活)。

 レッスン後、先輩A氏から居合の話を聞く。居合→タンゴ、という順番で始めたらしい。この間知り合ったT氏も古武術経験者だったし、私も元武道オタク。武道→タンゴの流れ、もっと増えたら面白そうだ。
 特に男性は、武道の世界にいるとホモソーシャル(競技武術より、護身術や古武術領域の方が淀んだホモソーシャル率は高い)どっぷりになりやすいので、バランスをとるためにもペアダンスっていいのでは、とひそかに思う。まあ、ペアダンスはペアダンスで、規範の内面化が大きいところはあるのだが。と、ちょっと真面目なことを考えたりもした日曜でした。

実際よりも

 仕事は難渋しているが、前よりは少しマシ。
 昨日は、エッセイストの紫原明子さんとランチしながらのおしゃべり。ちょっと悩んでいることがあって相談しに行ったのだ。いつものように、徹底的に励まされて心あたたまった。彼女の周りには常に「相談したい人」が集まっている(ような気がする)のだが、それはこの「あたためパワー」によるものなんだよなと強く思う。
 話していてちょっと驚いたのが、明子さんに「みきちゃんは、実際よりも『ものをわかっていない人』風に文章を書くよね。文章の方が気さくで、実際の方がピリッとしてる」と言われたこと。普段は逆を言われることの方が多い。実際に会った人にはよく、「もっと怖い人かと思っていたけど、実際会ったら優しくてホッとしました」と言われるのである。
 明子さんにそう言われて改めて考えみたが、意識的にくだけた文章を書いているところはたしかにある。私は素の文体だととにかく言い回しが硬くてワンセンテンスが長い。仰々しくて古めかしい文章になってしまうので、それをなるべくやわらかくしている。この日記も素の文体100%ではなくて、だいぶくだいているつもり。
 なぜあまり文章を硬くしたくないのか、わかっていない人間であるという立ち位置にこだわってしまうのかというと、単純に読みやすくしたいからというのもあるが、もうひとつ、「偉そうだ」と言われるのが怖いからだということもある。自分は実力以上に偉そうにしてしまう人間なんだ、という感覚が私はとにかく強くて、どうもいつもどこか恥ずかしいのである。
 この件について考えて思い出すのは、中学生くらいのときに、何かで母親を怒らせた際に吐き捨てられた「みきなんて知ったかぶってばっかりのくせに」という言葉だ。猛烈にショックだったのは、心当たりがないわけでもなかったからだ。今でも年に数回はこの言葉を思い出す。
 まあしかし、「偉そうに見えないように」「知ったかぶりに見えないように」というマイナス補正にやたらと心を配っていてもしょうがない、という風にももちろん思う。そんなことよりもっと考えるべきことはある。タンゴのレッスンで私は今「実際の身長よりも縮まった形になってしまう」癖を直そうとしているのだが、そういう萎縮癖が、ダンスに限らずあらゆるところに根を張っているのだろう。

 そして今日の昼は、超優秀な編集者U氏と神保町で緊急ランチミーティング。美味しい欧風カレーを食べる。彼の方が年下だが、とにかくクレバーな人なので、いつも私は「なるほど〜」と言ってばかりいる。
 彼に、最近読んだとある論考の「エモ優位」なところについて愚痴ったところ、「今は小説でもなんでも、全てがそれに向かってますよ」という返しだった。

小池「それって海外もそうなんでしょうか? 日本だけ?」
U氏「海外の小説など読んでいても、そういうタイプの作品は増えているように思います。読者のほとんどが、整合性だの理論だののことを考えないで読んでいるということに、編集や書き手側も気づいてしまったんじゃないですかね」

 私もエモーショナルなものは好きだ。しかしながら、今ちまたで(どこだよ)「エモい」と言われているものの大半は、私にとってはあまりエモーションがかきたてられないものなので、エモ優位な時代らしいのに、私のエモ欲は満たされないという辛いことになっている。いったいどうすりゃいいのか……って自分で書くしかないんだ。
 帰り際、「小池さんの最近書かれているコラム記事、面白く読んでますよ」と言われて大変ありがたい気持ちになった。こんなに忙しい人なのに、私の書いたものも読んでくれているとは。しかも彼は私の知っている人たちの中でも群を抜いて読書家で、超目利きなのだ。怖いといえば怖い。
 歳を重ねるごとに、「この人たちに対して恥ずかしいものは書けない」、と思う相手が増えていく。それは幸せなことだ。もちろん苦しいことでもあるのだけれども。

 ところで、先日からドラマ「ダウントン・アビー」をとうとう見始めてしまった。あまりに私の好みドンピシャの設定すぎて、ドハマりするのが怖くて敬遠していたのだ。
 見てみたらやっぱり最高すぎて、気を強く持たないと全話一気見をしてしまいそうで恐ろしい。一日1話か2話、寝る前に見るだけに留めたい……。今シーズン1を見終わったところ。トーマスとオブライエンの二人の行く末が気になる。

嵐の予感

嵐の予感