考える引き出し

小池みきがなんでも書くところ・タンゴ練習記録多め

実際よりも

 仕事は難渋しているが、前よりは少しマシ。
 昨日は、エッセイストの紫原明子さんとランチしながらのおしゃべり。ちょっと悩んでいることがあって相談しに行ったのだ。いつものように、徹底的に励まされて心あたたまった。彼女の周りには常に「相談したい人」が集まっている(ような気がする)のだが、それはこの「あたためパワー」によるものなんだよなと強く思う。
 話していてちょっと驚いたのが、明子さんに「みきちゃんは、実際よりも『ものをわかっていない人』風に文章を書くよね。文章の方が気さくで、実際の方がピリッとしてる」と言われたこと。普段は逆を言われることの方が多い。実際に会った人にはよく、「もっと怖い人かと思っていたけど、実際会ったら優しくてホッとしました」と言われるのである。
 明子さんにそう言われて改めて考えみたが、意識的にくだけた文章を書いているところはたしかにある。私は素の文体だととにかく言い回しが硬くてワンセンテンスが長い。仰々しくて古めかしい文章になってしまうので、それをなるべくやわらかくしている。この日記も素の文体100%ではなくて、だいぶくだいているつもり。
 なぜあまり文章を硬くしたくないのか、わかっていない人間であるという立ち位置にこだわってしまうのかというと、単純に読みやすくしたいからというのもあるが、もうひとつ、「偉そうだ」と言われるのが怖いからだということもある。自分は実力以上に偉そうにしてしまう人間なんだ、という感覚が私はとにかく強くて、どうもいつもどこか恥ずかしいのである。
 この件について考えて思い出すのは、中学生くらいのときに、何かで母親を怒らせた際に吐き捨てられた「みきなんて知ったかぶってばっかりのくせに」という言葉だ。猛烈にショックだったのは、心当たりがないわけでもなかったからだ。今でも年に数回はこの言葉を思い出す。
 まあしかし、「偉そうに見えないように」「知ったかぶりに見えないように」というマイナス補正にやたらと心を配っていてもしょうがない、という風にももちろん思う。そんなことよりもっと考えるべきことはある。タンゴのレッスンで私は今「実際の身長よりも縮まった形になってしまう」癖を直そうとしているのだが、そういう萎縮癖が、ダンスに限らずあらゆるところに根を張っているのだろう。

 そして今日の昼は、超優秀な編集者U氏と神保町で緊急ランチミーティング。美味しい欧風カレーを食べる。彼の方が年下だが、とにかくクレバーな人なので、いつも私は「なるほど〜」と言ってばかりいる。
 彼に、最近読んだとある論考の「エモ優位」なところについて愚痴ったところ、「今は小説でもなんでも、全てがそれに向かってますよ」という返しだった。

小池「それって海外もそうなんでしょうか? 日本だけ?」
U氏「海外の小説など読んでいても、そういうタイプの作品は増えているように思います。読者のほとんどが、整合性だの理論だののことを考えないで読んでいるということに、編集や書き手側も気づいてしまったんじゃないですかね」

 私もエモーショナルなものは好きだ。しかしながら、今ちまたで(どこだよ)「エモい」と言われているものの大半は、私にとってはあまりエモーションがかきたてられないものなので、エモ優位な時代らしいのに、私のエモ欲は満たされないという辛いことになっている。いったいどうすりゃいいのか……って自分で書くしかないんだ。
 帰り際、「小池さんの最近書かれているコラム記事、面白く読んでますよ」と言われて大変ありがたい気持ちになった。こんなに忙しい人なのに、私の書いたものも読んでくれているとは。しかも彼は私の知っている人たちの中でも群を抜いて読書家で、超目利きなのだ。怖いといえば怖い。
 歳を重ねるごとに、「この人たちに対して恥ずかしいものは書けない」、と思う相手が増えていく。それは幸せなことだ。もちろん苦しいことでもあるのだけれども。

 ところで、先日からドラマ「ダウントン・アビー」をとうとう見始めてしまった。あまりに私の好みドンピシャの設定すぎて、ドハマりするのが怖くて敬遠していたのだ。
 見てみたらやっぱり最高すぎて、気を強く持たないと全話一気見をしてしまいそうで恐ろしい。一日1話か2話、寝る前に見るだけに留めたい……。今シーズン1を見終わったところ。トーマスとオブライエンの二人の行く末が気になる。

嵐の予感

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